馬のお婿さん
ラジオ「昔話へのご招待」『中国の昔話 4』の「馬の頭をした娘」を聞きなおしていて、なんだか日本の「猿婿」や「蛇婿」と似ているなぁ…と、思いました。
どこが似ているかというと…
人間「〇〇してくれたら、娘と結婚させる(お嫁さんになる)」と、動物に提案
↓
動物が〇〇してくれて、婿になろうとする
↓
人間に殺される
という、動物にとって非常に理不尽な展開です。
なぜこんなことになってしまったかというと…
日本の「猿婿」などについては、ラジオの小澤先生の解説によれば、日本人の信仰が時代と共に変わってきたことを示しているそうです。
つまり、大昔の日本人にとって動物は神様だったので(物語上)結婚OKだったけれども、その後仏教伝来で畜生になってしまったので結婚NGになってしまった、という変化が、上記の理不尽な展開に反映されているらしいのです。
中国にも日本と同じような展開の昔話があるということは、中国でも日本同様、信仰の変化があったと考えてよいのでしょうか?
そうだとすれば、前から少し疑問に思っているのですが、仏教の不殺生はどこにいってしまったのでしょう。仏教の本場・インドにも、日本や中国のように動物のお婿さんを理不尽に殺してしまう昔話があるのでしょうか?
考えてみれば神様に対して「〇〇してくれたら娘を嫁に」なんていう取り引きを持ち掛けるのはいかがなものか…という気もしました。でも蛇が殺されることなく最後まで神様として出てくる古事記の「蛇婿」にはこの部分はなかったと思うので、取り引きは退治の前振りとして付け加えられたのかな?とも思いました。
なんだか、いろいろなことが気になってしまいました。
千羽鶴の今昔
祖母は折り紙が好きで、元気な頃はくす玉をたくさん折って家じゅうに飾っていました。
何となくそんなことを思い返していて、ふと、折り紙のくす玉の起源って…?と、疑問に思いました。でも、折り紙のくす玉は七夕飾りにすることが多いらしい…ということ以外には何もわかりませんでした。
何だかスッキリしなかったので、もっとメジャーな折り紙、千羽鶴のことを調べてみました。
千羽鶴で有名なのは、何といっても広島の佐々木禎子さん。彼女は2歳で被爆して12歳で白血病にかかり、病床で亡くなるまで鶴を折り続けたことが知られています。私も小学生くらいの頃に彼女のことを絵本で読んだのを覚えています。
インターネットを検索してみると、千羽鶴は禎子さんが起源という説もあるようでしたが…、どうやらそうではなく、千羽鶴はもっと昔からあったようです。
戦前の千羽鶴を描写した作品で、インターネット上で無料で読めるものを、2つ見つけました。
読んでみると、当時の千羽鶴は今とは大分違っています。
どこが違うかというと、3点あって…
(1)折り鶴の数
今は1000羽そろえるのが一般的かと思います。結構大変なものですよね。場合によっては苦行にも感じられるくらいです。
ところが戦前は、数羽、数十羽でも複数の折り鶴がつながっていれば「千羽鶴」といっていたようです(!)。今より意味が広かったのですね。
例えば「合歓の並木」には、お婆さんと女の子が「千羽鶴」を作ろうと言って、50羽くらい鶴を折り、観音堂に納めるエピソードがあります。
「智恵子の紙絵」には、入院中の智恵子に千代紙を差し入れたら彼女が喜んで「千羽鶴」を折って病室の天井から吊るした、お見舞いのたび鶴が増えていた、というエピソードがあります。何羽とはっきり書いてはいないけれども、文脈から1000羽ではなく、数羽~多くても数十羽くらいと思われます。
なお、禎子さんの折り鶴の正確な数は不明で、諸説ありますが、大まかには1000羽前後です(Wikipedia)。
(2)鶴を折る目的
今では千羽鶴は、たいてい自分以外の誰かのため…言い換えれば利他的な願掛けのために折るものです。それに数が多いこともあって、単に自分の楽しみのために千羽鶴を折るケースは少ないかと思います。
ところが戦前は、上記2作品を読む限り、千羽鶴は自分の楽しみ、あるいは自分の願掛けのためのものでした。「智恵子の紙絵」では入院中の気晴らし(願掛けなし)、「合歓の並木」では楽しみと願掛けと半々といった雰囲気です。これだけで断定はできませんが…、当時は、今のように、他の人のために折る習慣はなかった可能性も考えられます。
禎子さんも自分で、病気平癒を願って鶴を折りました。もしかすると入院中の気晴らしという側面もあったのかもしれませんが…、最終的に彼女が残した1000羽前後という折り鶴の数には、病気が治るようにという強く切実な願いが現れているようです。
(3)保管場所
今の千羽鶴は贈り物として折られることが多く、人に贈る場合と、災害の被災地など、場所に贈る場合があります。
戦前の例をみると、「合歓の並木」ではお婆さんと女の子が自分たちの将来の幸福のために50羽ほどの千羽鶴を折って、観音堂に納めます。「智恵子の紙絵」では入院中の智恵子が気晴らしのために(おそらく数羽~十数羽の)千羽鶴を折って病室の天井に吊るします。
禎子さんも、折った鶴を病室の天井から吊るしていたそうです(広島平和記念資料館Web siteより)。
今でも千羽鶴を贈られた側は、病室に飾ったりお寺などに納めたりするので、この点は戦前と似ています。
以上のように、「智恵子の紙絵」「合歓の並木」を読む限り、戦前と今とでは、同じように「千羽鶴」といっても、折り鶴の数や折る目的が全然違っていたみたいです。
それに今では、千羽鶴は誰かのために折って贈り物にする習慣が一般的になっていますが、戦前にはこんな習慣はなかった可能性があります。
つまり、戦前→今という時代の流れの中で、千羽鶴もかなり変化してきたように思われます…。
その変化のきっかけの1つが禎子さんだったのかもしれません。彼女の時代の常識が戦前に近かったとすれば、その頃は1000羽もの鶴を折って願掛けをする人が少なかったので、なおさら注目されたのかも…と、想像されました。
別のきっかけとして、今の千羽鶴には、戦時中盛んに行われた千人針(Wikipedia)が影響したという説があるそうです。確かに、自分のためでなく人のために折って贈り物にするという特徴は千人針と共通するものです。
まとめると、今の千羽鶴は、戦前からあった「折り鶴の吊るし飾りに(自分のための)願掛けをする」風習が、千人針や禎子さんの影響を受けて「折り鶴1000羽を贈って(誰かのための)願掛けをする」と変化してきたものなのかな…と、思いました。
ところで、私は今日まで、千羽鶴といえば折り鶴のことだと思っていました。でも、そればかりではなく、鶴の群れのデザインも千羽鶴というようです。例えば川端康成「千羽鶴」に「千羽鶴の風呂敷」というのが出てきます。
デザインと折り鶴とどちらが先なのでしょう。また、折り鶴に願いを込める信仰は、いつから始まったのでしょう? 江戸時代? もっと前? 謎です…。
言語の距離
大好きなラジオ「昔話へのご招待」の今週のゲストは斎藤惇夫さんだそうです。
斎藤惇夫さんの「ガンバとカワウソの冒険」は子供時代に繰り返し読んだ思い出深い一冊です!
野犬の出てくるシーンが怖くて。当時小学生で、野犬(やけん) という単語を知らず、読み方もわからなかったので、余計怖かったのを覚えています。
ところで「昔話へのご招待」では、最近、モンゴル・ハンガリー・フィンランドが特集されています。この3国は距離的に離れていますが、もとはウラル山脈のふもとにいた人々が移動したので、言語学的に近い関係にあるそうです。
というお話をきくと、司馬遼太郎さんがモンゴル語と日本語は「語順が同じ」と書かれていたのを思い出してなんだか親近感を覚えます。
でも考えてみると、日本語はモンゴル語や朝鮮語と語順が同じと言われているのに、同じ語族とはみなされていません。言語の距離は、語順をあまり重視しないのでしょうか?
なんとなく気になってインターネットを検索してみたら、言語の距離は、学習のしやすさ・習得のはやさで測る方法があるようでした。たとえば、日本語を母語とする人と、英語を母語とする人がいて、フランス語を学習する場合どちらが早いかということ。
つまり、言語の距離は一つのパラメーターで決まるのではなく、語順、語彙、発音、聞きやすさなどが複雑に絡み合っているもの、なのかもしれません。
そうなってくると、たとえばヨーロッパの言葉でも母音の多い言葉のほうが日本語に近い、ということになるのかも?と想像すると、何だか面白いです。地中海の線文字Bは日本語と同じ音節文字だったといいますし…。
「君はだぁれ?」
「君はだぁれ?」を読みました。イタリアの作家さんの小説です。図書館で偶然見つけて、表紙の絵が可愛らしかったので、思わず手に取りました。
- 作者: パオラ・マストローコラ,フランコ・マッティキオ,川西麻理
- 出版社/メーカー: シーライトパブリッシング
- 発売日: 2008/08/11
- メディア: 単行本
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(主人公が何の動物か、物語の途中まで伏せられているので、表紙に描かれているのは少し残念に思いました。)
主人公が自分の属する社会に裏切られて心のバランスを崩すシーンと、その後、社会から逃げ出して姿の見えないモグラたちと対話しながら「自分は誰でもない」と気付いたときに、自分に翼があったことを思い出すというエピソードが印象的でした。
集団に属することによる気持ちの安定と…、集団に圧倒されて精神を病んでしまうこと、そこから自分の道を見つけ出すことは、とても古くて、新しいテーマだなぁと感じます。飛躍してしまうかもしれませんが、多神教と一神教というのは、こんな人間の葛藤を反映しているような気がしてなりません。
ルーム(2015、カナダ/アイルランド)
映画「ルーム」を観ました。
父親が実の娘を地下室に監禁していたという、とんでもない実話にもとづいているというので、映画もシビアなストーリーを予想していたのですが…、
献身的に母親を助ける主演の男の子が、妖精みたいに可愛らしくて、サスペンスというより、癒しの映画だなぁと思いました。
「神、人を喰う - 人身御供の民俗学」
博士論文の書籍化なので、はじめは難しいかな?と思ったけれど、 人身御供や人柱の、研究の歴史が素人にも分かりやすく説明されていて、なんとか最後まで読めました。
人身御供の伝説や昔話は、今でも、沢山語り継がれていますし、人身御供を模したお祭りも数多くあります。
それは、突き詰めると、人々の中にある、根源的な暴力への欲求を表したものだと、作者は結論付けたようです。
…
ここからは、私の考えです。
人身御供は、本人にとっては他者の利益のために自分の命を差し出すことであり、それ以外にとっては、自分(達)の利益のために他人の命を奪うことです。
その利益とは、五穀豊穣、災害の防止や鎮圧など。
…つまり、自殺 or 殺人により、自然をコントロールできるという考え方です。どうして繋がるの?と、不思議に思いますが、それこそ、"神の嫁" であったり、"穀物神の死と再生" であったり、さまざまな信仰が介在しているのだと思います。
でも…、そんなややこしい間接的な信仰が、最初からあったのでしょうか…。
日々食べられるかどうかという生活では、人身御供の直接の利益は、まず、飢餓を癒すため、食べるためだと思うのです…。あるいは、船上で嵐に見舞われた際には、乗組員を減らして船体を軽くするための人身御供が、あったと思います…。当初は、こうした人々の直接の利益のために行われていた殺人が、後に、信仰と結びついたとは考えられないでしょうか。
言い換えると、人々は、集団が命の危機に瀕した時、少数を犠牲にして、集団を存続させることを、昔から行ってきていて…、それが、農耕(自然のコントロール)の進歩とともに、信仰と結びついて儀式化したのでは、ないでしょうか…。
そんな儀式を、人々が好んで行っていたとは、とても考えられません。上記の本では、人間には暴力への根源的な欲求があることが、指摘されていましたけれど…、逆に、非暴力への欲求も、あるはずです。
なぜなら、人間は、集団を作って暮らす社会的な生き物だからです。そのコミュニティのなかで(あるいは近辺で)殺人をすれば、集団を壊してしまう恐れがあります。その危険を冒しても人身御供をしていたとすれば、それは、自然を手なづけて食糧を得て穏やかに暮らすことが、本来、非常に難しいということを、示しているのだと思いました…。
人身御供は本質的には、殺人だと思いますが、時に犠牲者が自分から命を差し出すように仕向ける工夫をしたり、旅行者などの第三者から選んだり、社会的弱者から選んだりするのは、仲間殺しの衝撃を少しでも和らげるためのように、思います。
ですから、人身御供の伝説・昔話・祭りが今に伝わっている理由も、私は、普通には受け入れ難い習俗を人々が受容するためでは…?と、何となくそんな気がしました。
水神への生贄?(片目伝説5)
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柳田国男氏の「一目小僧」を、再読してみました…1つ、気になったところがあるので下に引用します。
…ただ祭の時、神と人との仲に立って意思の疎通を計った特殊の神主が、農業にとっては一番利害関係の大なる水の神の祭に、比較的ひろくかつ久しく用いられていたらしいことと、飲食音楽以外の方法で神の御心をやわらげ申すという、今日の人にはややにがにがしく感ぜられる思想が、特にこの方面に永く残っていたらしい…(柳田国男「一目小僧」)
柳田氏は、片目伝説を、田の神へ生贄を捧げていた名残と考えていたようです。
ちょっとびっくりするような話ですが、人柱や持衰も考えてみれば水の神に捧げていたわけだし…もしかしたら、そんなこともあったのかも…という気もしました。
前にも書いたとおり、Wikipedia等によれば、日本の片目伝説の起源は、2つの説がよく知られていますが…
- 日本の片目伝説の起源
1か2か、ではなく、もしかすると、1と2が混ざった可能性もあるなぁと思いました。
そうだとすれば…
一つ目の神様や鬼に関する日本最古の記録は、8世紀の「日本書紀」「出雲風土記」。
日本書紀には、鍛冶神「天目一箇神」の記載がある一方、「出雲風土記」には一つ目の人食い鬼「阿用郷の鬼」について書かれているそうです。
阿用郷の鬼を、1に関連するものと仮定すると、8世紀当時、1は既に零落して妖怪化していて…、一方、2は現役、かつ、国が公式に存在を認めていた…と、すれば、1は2よりも古い時代の出来事であったと考えられるでしょうか。
さらに、日本書紀のスポンサーは天孫一族で、彼らの最大のライバルが出雲族であったことを考慮すると、2は天孫族の信仰、1は出雲族の信仰であったと、考えることができるでしょうか…?
蛇足を重ねますが…、
古事記に、イクタマヨリヒメ(スエツミミの娘)が大物主(三輪山の蛇神)と結婚してオオタタネコという神様の祖先を産むお話があります。
三輪山の大物主は、天孫族以前に付近を治めていた王様で、出雲族出身だったと記憶しています。
(司馬遼太郎氏によれば、現地では「オオミワはんは、ジンムさんより先や」と、語り継がれているのだとか。)
ここにも、出雲出身の蛇神(水神)がでてきます。
水神に生贄を捧げて田の豊穣を願う信仰が、大昔の出雲族にあって、それが、天孫族の日本統一後、妖怪化したり、伝説や昔話に変わったのかな…なんて、想像を逞しくし(すぎ)てしまいました…。
片目の伝説(4)
*このブログの関連記事
先日、地元の図書館で、ふと民話の本を手にとって開くと、片目の魚のお話が載っていました。
- 片目の魚の伝説とは…
- ある池・沼などに住む魚がおかしなことに皆片目だといい、それにまつわるさまざまな因縁が語られます。たとえば、片目を矢で射ぬかれた武将がその池で目を洗って以降、魚が片目になった…など。
片目の伝説って、なぜこんなに、あちこちに、沢山あるのでしょう?
私の郷里には、片目の神様の伝説があるので、ちょっと気になってしまいます。
- 片目の神さまの伝説とは…
- 神さまがある地方へ出かけた折、ある特定の(ウド、胡麻、竹など)植物で目を傷めたので、その後、その地方にはその植物が生えなくなったというお話です。
Wikipedia等によれば、日本の片目伝説の起源は、2つの説がよく知られています。
- 日本の片目伝説の起源
時代的には、2であれば弥生時代くらい、1であればもっと大昔になるでしょうか。
そんな大昔の信仰が、2000年(以上?)経った今も沢山残っていると思うと、とても不思議です。
ところで、片目伝説は、古い書物にも書き残されているのでしょうか?
一つ目の神様や鬼に関する伝説は、日本書紀や風土記にあり、これらは、ギリシア神話など海外の神話などとも類似点があるそうです。驚いたことにギリシア神話にも一つ目の鍛冶の神様がいらっしゃるのだとか。
今残っている片目伝説は、これらと関係があるのでしょうか?
ヒラメちゃんの塩センベの正体?
漫画「じゃりン子チエ」に出てくる謎のお菓子、塩せんべい。
東北の「南部せんべい」同様、丸くて、フチにギザギザが付いています。
結局、実物にはまだ遭遇していないのですが…、
私は、これは今でも売られている「ポンせんべい」の古いバージョンなのかも?と、密かに考えています。
ポンせんべいは、「満月ポン」の松岡製菓さんによれば、昭和33年(1958年)に商品化されたそうです。
ポンせんべいは、小麦粉を、おせんべいの型に密閉して、圧力をかけて空気を含ませて焼き、醤油味をつけたものです。密閉するので、南部せんべいのようなギザギザ部分はなく、まんまるな形をしています。
でも、ポンせんべいが考案される前は、圧力をかけない、南部せんべい方式で焼いていたのでは?
つまり、醤油味の南部せんべいが、ヒラメちゃんの塩センベの正体なのでは?
と、思うのです。
ちなみに、なぜ塩味でないかというと…、
関西は昔は瓦せんべいのような甘いおせんべいが主流で、それに対して、関東発の醤油味のおせんべいを、塩せんべいと呼んで区別していたらしいので。
ところで、漫画「じゃりン子チエ」の連載開始は、Wikipediaによれば昭和53年(1978年)です。
ポンせんべい登場から20年経っていますが、この頃にはまだ、ヒラメちゃんの塩センベが残っていたのでしょうか。
かさじぞう
小澤俊夫さんの「昔話へのご招待」の、年末最後の回で、「かさじぞう」を久し振りに聴きました。
聞き手の中村律子さんも仰っていましたが、良いお話だなぁ…と、しみじみしてしまいました。
お正月くらいお米を食べたいと思って、家に残っていた資材で、菅笠を作って売りに行って…、でも、悲しいことに全く売れなかったので、雪で寒そうにしていたお地蔵さんに被せてあげて、1つ足りなかったのでお爺さんがかぶっていた笠もかぶせてあげたら、お地蔵さんが…、というお話。
自分を大切にする気持ち、人を大切にする気持ち、生きていくのに何が大事かということ、その気づきは簡単なようで難しいということ。ほんの短いお話の中に全部入っているのが凄いなぁと、思いました。