陽だまり日記

陽だまり日記

大好きな本や映画のことなど

ハロウィンのこと

ハロウィンが近いので、「ケルト 再生の思想」を少しずつ読んでいます。

ハロウィンって何なのか、やっと分かりました。

秋と冬の狭間の、日本で言う立冬の時期が、ケルト民族にとっては1年の始まりであり、先祖の霊(とかいろんな霊)が帰ってくる時期で、つまり、文字通り「盆と正月が一緒に来たような」お祭りのようです。

ちなみに、他の季節の変わり目にもそれぞれの祝祭があるのだとか。

  • 秋と冬の間<立冬> サウィン(ハロウィン) 新年
  • 冬と春の間<立春> インボルク 女神ブリジットの祭
  • 春と夏の間<立夏> ベルティネ 5月祭
  • 夏と秋の間<立秋> ルーナサ 収穫祭

日本では、旧正月立春の頃、お盆が立秋の頃。どちらもケルトと時期は違いますが、季節の変わり目なのは同じです。

季節の変わり目には、この世とあの世の境界があいまいになり、霊がこちらにやってくるという信仰が、世界各地にあるのかもしれません。

旧正月前日の節分にも「鬼は外」がありますし、昔話で、おおみそかの晩に神様がやって来るというのも、ひょっとしたらその類なのでしょうか。

 

興味深いことに、七夕やお盆の時期に、北海道では"Trick or treat"と似た行事を行っている地域があるそうです(ローソクもらい - Wikipedia)。これは、青森のねぶた祭りで行われていた(子どもたちによる?)ろうそく集めが、北海道で根付いて、時代を経てお菓子集めに変化したのだそうです。

 

上記のWikipediaによれば(こちらのブログから引用したようですが)、お盆には、日本各地で、子どもたちが自分で材料を集めて行う「精霊送り」等があるといいます。残念なことに、私は全く経験がありません。

 

お盆に子供がする「精霊飯」という行事に関して、柳田国男さんの「こども風土記」にこんな記述があります。

ままごとは親が見ても静かでしおらしくまた他日の修練にもなって、同情のもてる遊びであったが、それが最初から遊戯として生まれたものでないことは、盆のままごとの一つの例を見てもわかる。浜名湖はまなこ周囲の村々ではショウロメシ、瀬戸内海のある島では餓鬼飯がきめしとさえいう通り、盆は目に見えぬ外精霊ほかじょうりょうや無縁ぼとけが、数限りもなくうろつく時である故に、これに供養くようをしてよろこばせて返す必要があったとともに、家々の常の火・常のかまどを用いて、その食物をこしらえたくなかった。それがかどつじ川原かわら等に、別に臨時の台所だいどころを特設した理由であり、子どもはまた触穢しょくえいみに対して成人ほどに敏感でないと考えられて、特に接待掛りの任に当ったものと思われる。 

子どもが行うことにも、それなりに意味があるのですね。「七歳までは神のうち」とも言いますし、大人よりも精霊に近い存在と考えられたのかもしれません。

ハロウィンの"Trick or treat"にも、やはり、意味があるのでしょうか。

「日本語の源流を求めて」

大野晋さんの「日本語の源流を求めて」を読みました。

日本語が、インド南部のタミル語と関係があるという説です。

専門家の間でも賛否両論とのことで、私も、正直、最初は、インドなんてずいぶん遠いなあと思いました。

でも、読んでみたらとても面白かったです。日本語の語幹に共通するニュアンスがタミル語にも共通していて、片方だけでは考えすぎみたいでも、両者を突き合わせると説得的になるというのは、ナルホドーと思いました。

そもそも、インドの言葉は、ヨーロッパの言葉と仲間なのだとばかり思っていましたが、それは北インドの言葉で、タミル語をはじめとする南インドの言葉はまた違う"ドラヴィダ語族"なのだとか。しかも、ドラヴィダ語というのは、語順や文法が日本語と似ているといいます。そうだったんですね……。

そうなってくると、素人考えですが、日本と遠いからこそ類似点があるのかもしれません。言葉や言い伝えは、古いものが周辺に押しやられて残るという考え方があるそうですから。

それに、日本語の起源というと、私は今まで、北か南かどっちなのかしらと、いつも思っていましたが、お米と一緒に西から来たということも当然考えられるわけです。今更ながら目からウロコが落ちました。

日本語の源流を求めて (岩波新書)

日本語の源流を求めて (岩波新書)

 

お米と一緒に西から人々がたくさん来たんだ……と想像してみると、縄文人弥生人のイメージも広がりました。今までは何となく縄文人が相当数いたところに弥生人がやってきて、そこそこ平和的に共存して、稲作を広めたみたいに思っていました。

でも、アメリカやオーストラリアのように、後からやってきた人々が前からいる人々を圧倒してしまうことだってあり得ます。アメリカやオーストラリアにヨーロッパから入って住んでいる人は、以前の住民と混血はしているでしょうが、文化的には連続していません。縄文人弥生人の関係も、そういったものであった可能性があると思いました。

「灼熱の魂」(2010、カナダ)

久々に映画を見ました。やらなければいけないことがあるのに、それをやらずについ最後まで見てしまいました。

双子が生まれてすぐ付けられた名前が分かるところが、とても印象に残っています。

灼熱の魂 [DVD]

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癒し

眺めているだけで楽しくて、久しぶりに本を衝動買いしてしまいました。

作ってみたら、とても癒されました…! 10号レース針で40番レース糸etc...にビーズを編み込んでいきます。

こういう小さな物たちの、色の組み合わせを考えていると時間を忘れてしまいます。アルファ波的な何かが出ている気がするのが不思議です。

かぎ針ひとつでやさしく編める ビーズで楽しむ オヤのアクセサリー (暮らし充実すてき術)

かぎ針ひとつでやさしく編める ビーズで楽しむ オヤのアクセサリー (暮らし充実すてき術)

 

「きみはいい子」「世界の果てのこどもたち」

 中脇初枝さんの「きみはいい子」と「世界の果てのこどもたち」を読みました。

([な]9-1) きみはいい子 (ポプラ文庫)

([な]9-1) きみはいい子 (ポプラ文庫)

 
世界の果てのこどもたち

世界の果てのこどもたち

 

中脇初枝さんが「魚のように」でデビューされたときのことは、鮮烈でよく覚えています。確かTVドラマにもなって、それを見た記憶があります。

なので、「きみはいい子」は随分前から気になっていましたが、何となく読む機会を逃していました。最近、中脇さんご自身がラジオ「昔話へのご招待」で小澤先生と対談されて、作品の話題が出てきたので、そういえば…と手に取りました。

小澤先生が何度も言われたように、どちらも本当に素晴らしくて、引き込まれて一気に読んでしまいました。

具体的にどこが素晴らしいかうまく言葉が見つかりませんが、昔話と同じように、使っている言葉は平易で、読みやすく、映画を見ているように自然に物語の中に入れる感じがします。小説の内容は、社会の暗い面を描いていてシビアではありますが、語り口が淡々としていて、さりげなく「神様は扉を閉めるとき窓を開ける」みたいなことが描かれているので、目をそむけたくなるようなことにも時には向き合っていかなければという、勇気をもらえます。

「きみはいい子」は現代もので、新興住宅地で起きる学級崩壊、いじめ、子どもへの暴力、介護等の諸問題をオムニバス形式で描いた作品。「世界の果てのこどもたち」は太平洋戦争中の、中国残留日本人孤児、在日朝鮮人戦災孤児等を描いた作品です。

同じ作者の、他の作品も読んでみたくなりました。

海街diary

大好きな作品です。

中でも、ヒマラヤの鶴のエピソード(4巻)が良かったです。

海街diary 8 恋と巡礼 (フラワーコミックス)

海街diary 8 恋と巡礼 (フラワーコミックス)

 

この作品は子どもに救いがあるところがいいなと思います。

救いのないような作品を描いてきた作者だからこそなのかなとも。

ネガとポジは表裏一体と思えて、自分自身の希望にもなります。

「君の名は。」

 映画「君の名は。」をやっと観ました。

若者に大ヒットと聞いて、ついていけるかな…と少し不安でしたが、大丈夫でした。

あの日、あの時、あの場所にいたばっかりに…というストーリーに、子どもの頃から慣れ親しんでいることも大きかったと思います。

 

君の名は。」は、そのXデイが現代(近未来、近過去)で、悲劇を回避するファンタジーになっています。今だからこそリアリティーが生まれて大ヒットしたのかなと思いました。

一昔前はXデイはたぶん遠い過去か、遠い未来のものだったけれど、今は近過去であり、近未来であり、いつその日が来てもおかしくないような気がします。でもというか、だからこそなのか、普段はそのことをあまり意識しません。「君の名は。」の少年、少女の記憶がすぐに消えてしまうのも不思議と納得できます。

 

ところで、20年ぐらい前に、一時的にXデイの到来が話題になったことがあります。

1999年のノストラダムスの予言が近づいた90年代後半です。

クロノ・トリガー」とか、やまざき貴子さんの「ZERO」とか、懐かしい作品を幾つか思い出しました。

アルティメット ヒッツ クロノ・トリガー

アルティメット ヒッツ クロノ・トリガー

 

 

迷宮

小中学生時代をチェコで過ごした米原万里さんは、著書「パンツの面目 ふんどしの沽券」の中で、日本女性の羞恥心は複雑に入り組んでいて、まるで "迷宮" のようだと表現しています。

パンツの面目ふんどしの沽券 (ちくま文庫)

パンツの面目ふんどしの沽券 (ちくま文庫)

 

たとえば、公衆浴場での振る舞い。脱衣所で服を脱ぐことは全く恥ずかしがらないのに、全部脱いでからタオルで前を隠す不思議。確かに…。私も今は何とも思いませんが、子供の頃は、完全に隠せないタオルで隠す(フリをする)のは、何だかかえって気まずいような変な感じがしたものです。

また別の例で、学校のトイレでの不文律。誰が用足しに行ったか周囲に悟られないために友達同士トイレに付き添う習慣と、付き添いの友達に用足しの音を聞かれたくなくて個室内で水を流し続ける矛盾。これも、確かに…。ただ、私の経験ではこの習慣は個人差がありましたし、子供の頃は、誰でもすることを恥ずかしがるのは、自意識過剰を宣伝しているみたいで逆に恥ずかしいという気持ちもありました。「音姫」も最初は使うこと自体が恥ずかしいように感じましたが、今では普通に使います。

こうして書いてみると、本当に迷宮のようです…。

でも、もしかすると、問題は羞恥心ではないのかも…?と、ふと思いました。

同じ本によれば、日本では戦後間もない頃までは、着物の裾を端折ったり時には素っ裸で畑仕事をするのが普通だったけれども、進駐軍に配慮して自主規制するようになったのだそうです。

それと同じで、公衆浴場やトイレでの振る舞いも、自分の羞恥心というより、その場を構成する他人への配慮が原動力になっているのではないでしょうか。脱衣所ではモタモタすれば迷惑なのでサッサと脱ぎ、脱いだら見苦しくないよう前を隠す…。教室では用足しに立つのが人目につかないよう気を遣い、トイレでは友達に聞き苦しい音が聞こえないように配慮する…。場面が変われば当然対応も変わるので、当人の羞恥心を基準にすると一貫性がなくなってしまうのでしょう。

 

少々飛躍するかもしれませんが、こんなふうに周囲への配慮を重視するあまり矛盾を生じてしまうという問題は、最近のノンアルコール飲料の問題にもつながっているような気がしました。そもそもノンアル飲料は酒宴の場で飲める人・飲めない人の差がお互いを気まずくさせないために発明されたものかと思いますが、職場では逆に無用な誤解を生む恐れがあるので0.00%であっても飲まないという判断が一般的になりつつあるようです。この新常識(?)も、今は議論を呼んでいるし、私自身も、判断は人それぞれで良いのでは…と戸惑う気持ちがあります。でも、職場や運転中など、飲酒が禁忌の場面で紛らわしい行動をとれば見た人をギョッとさせてしまうかもしれないし、もっと言えば故意に驚かせていると受け取られる可能性があります。周囲への配慮を何よりも優先する文化では、確かに受け入れがたく非常識なことなのかもしれません。0.00%なのになぜダメなの…と今は不思議に思うことがあっても、時間がたてば音姫と同じように文化の一部になるのかもしれません。

 

ところで本の話に戻ると、公衆浴場での日本女性のふるまいを米原さんは「一種のコケットリーではないか」と書いておられたのが、印象的でした。結果的にそうなっているだけなのですが、別の文化を持つ人にそう見えてしまうのは驚きです。

それから笑うときに口元を隠すのは日本人くらいだというのも意外でした。(昔のお歯黒と関係があるのでしょうか?)この日本の習慣は、帰国子女の米原姉妹には異様で気味悪く映ったそうです。何が人を驚かせるかって、本当に分からないものですね…。

馬のお婿さん

ラジオ「昔話へのご招待」『中国の昔話 4』の「馬の頭をした娘」を聞きなおしていて、なんだか日本の「猿婿」や「蛇婿」と似ているなぁ…と、思いました。

どこが似ているかというと…

 

人間「〇〇してくれたら、娘と結婚させる(お嫁さんになる)」と、動物に提案

動物が〇〇してくれて、婿になろうとする

人間に殺される

 

という、動物にとって非常に理不尽な展開です。

 

なぜこんなことになってしまったかというと…

日本の「猿婿」などについては、ラジオの小澤先生の解説によれば、日本人の信仰が時代と共に変わってきたことを示しているそうです。

つまり、大昔の日本人にとって動物は神様だったので(物語上)結婚OKだったけれども、その後仏教伝来で畜生になってしまったので結婚NGになってしまった、という変化が、上記の理不尽な展開に反映されているらしいのです。

 

中国にも日本と同じような展開の昔話があるということは、中国でも日本同様、信仰の変化があったと考えてよいのでしょうか?

 

そうだとすれば、前から少し疑問に思っているのですが、仏教の不殺生はどこにいってしまったのでしょう。仏教の本場・インドにも、日本や中国のように動物のお婿さんを理不尽に殺してしまう昔話があるのでしょうか?

 

考えてみれば神様に対して「〇〇してくれたら娘を嫁に」なんていう取り引きを持ち掛けるのはいかがなものか…という気もしました。でも蛇が殺されることなく最後まで神様として出てくる古事記の「蛇婿」にはこの部分はなかったと思うので、取り引きは退治の前振りとして付け加えられたのかな?とも思いました。

 

なんだか、いろいろなことが気になってしまいました。

千羽鶴の今昔

祖母は折り紙が好きで、元気な頃はくす玉をたくさん折って家じゅうに飾っていました。

何となくそんなことを思い返していて、ふと、折り紙のくす玉の起源って…?と、疑問に思いました。でも、折り紙のくす玉は七夕飾りにすることが多いらしい…ということ以外には何もわかりませんでした。

何だかスッキリしなかったので、もっとメジャーな折り紙、千羽鶴のことを調べてみました。

千羽鶴で有名なのは、何といっても広島の佐々木禎子さん。彼女は2歳で被爆して12歳で白血病にかかり、病床で亡くなるまで鶴を折り続けたことが知られています。私も小学生くらいの頃に彼女のことを絵本で読んだのを覚えています。

インターネットを検索してみると、千羽鶴は禎子さんが起源という説もあるようでしたが…、どうやらそうではなく、千羽鶴はもっと昔からあったようです。

戦前の千羽鶴を描写した作品で、インターネット上で無料で読めるものを、2つ見つけました。

青空文庫「智恵子の紙絵」(高村光太郎)

国会図書館デジタルコレクション「合歓の並木」(加藤武雄)

読んでみると、当時の千羽鶴は今とは大分違っています。

どこが違うかというと、3点あって…

(1)折り鶴の数

今は1000羽そろえるのが一般的かと思います。結構大変なものですよね。場合によっては苦行にも感じられるくらいです。

ところが戦前は、数羽、数十羽でも複数の折り鶴がつながっていれば「千羽鶴」といっていたようです(!)。今より意味が広かったのですね。

例えば「合歓の並木」には、お婆さんと女の子が「千羽鶴」を作ろうと言って、50羽くらい鶴を折り、観音堂に納めるエピソードがあります。

「智恵子の紙絵」には、入院中の智恵子に千代紙を差し入れたら彼女が喜んで「千羽鶴」を折って病室の天井から吊るした、お見舞いのたび鶴が増えていた、というエピソードがあります。何羽とはっきり書いてはいないけれども、文脈から1000羽ではなく、数羽~多くても数十羽くらいと思われます。

なお、禎子さんの折り鶴の正確な数は不明で、諸説ありますが、大まかには1000羽前後です(Wikipedia)。

(2)鶴を折る目的

今では千羽鶴は、たいてい自分以外の誰かのため…言い換えれば利他的な願掛けのために折るものです。それに数が多いこともあって、単に自分の楽しみのために千羽鶴を折るケースは少ないかと思います。

ところが戦前は、上記2作品を読む限り、千羽鶴は自分の楽しみ、あるいは自分の願掛けのためのものでした。「智恵子の紙絵」では入院中の気晴らし(願掛けなし)、「合歓の並木」では楽しみと願掛けと半々といった雰囲気です。これだけで断定はできませんが…、当時は、今のように、他の人のために折る習慣はなかった可能性も考えられます。

禎子さんも自分で、病気平癒を願って鶴を折りました。もしかすると入院中の気晴らしという側面もあったのかもしれませんが…、最終的に彼女が残した1000羽前後という折り鶴の数には、病気が治るようにという強く切実な願いが現れているようです。

(3)保管場所

今の千羽鶴は贈り物として折られることが多く、人に贈る場合と、災害の被災地など、場所に贈る場合があります。

戦前の例をみると、「合歓の並木」ではお婆さんと女の子が自分たちの将来の幸福のために50羽ほどの千羽鶴を折って、観音堂に納めます。「智恵子の紙絵」では入院中の智恵子が気晴らしのために(おそらく数羽~十数羽の)千羽鶴を折って病室の天井に吊るします。

禎子さんも、折った鶴を病室の天井から吊るしていたそうです(広島平和記念資料館Web siteより)。

今でも千羽鶴を贈られた側は、病室に飾ったりお寺などに納めたりするので、この点は戦前と似ています。

 

以上のように、「智恵子の紙絵」「合歓の並木」を読む限り、戦前と今とでは、同じように「千羽鶴」といっても、折り鶴の数や折る目的が全然違っていたみたいです。

それに今では、千羽鶴は誰かのために折って贈り物にする習慣が一般的になっていますが、戦前にはこんな習慣はなかった可能性があります。

つまり、戦前→今という時代の流れの中で、千羽鶴もかなり変化してきたように思われます…。

その変化のきっかけの1つが禎子さんだったのかもしれません。彼女の時代の常識が戦前に近かったとすれば、その頃は1000羽もの鶴を折って願掛けをする人が少なかったので、なおさら注目されたのかも…と、想像されました。

別のきっかけとして、今の千羽鶴には、戦時中盛んに行われた千人針(Wikipedia)が影響したという説があるそうです。確かに、自分のためでなく人のために折って贈り物にするという特徴は千人針と共通するものです。

 

まとめると、今の千羽鶴は、戦前からあった「折り鶴の吊るし飾りに(自分のための)願掛けをする」風習が、千人針や禎子さんの影響を受けて「折り鶴1000羽を贈って(誰かのための)願掛けをする」と変化してきたものなのかな…と、思いました。

 

ところで、私は今日まで、千羽鶴といえば折り鶴のことだと思っていました。でも、そればかりではなく、鶴の群れのデザインも千羽鶴というようです。例えば川端康成千羽鶴」に「千羽鶴の風呂敷」というのが出てきます。

デザインと折り鶴とどちらが先なのでしょう。また、折り鶴に願いを込める信仰は、いつから始まったのでしょう? 江戸時代? もっと前? 謎です…。