陽だまり日記

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大好きな本や映画のことなど

「バナナフィッシュにうってつけの日」再考

J.D.サリンジャーの小説「バナナフィッシュにうってつけの日」は、学生の頃初めて読んでから、衝撃的なラストが強く印象に残っていました。

サリンジャーの小説をいくつか読み返して気づきましたが、彼は、女性の"脚"に相当思い入れがあるようです。その作者の分身であるシーモアが女性に対して、

「あんたはぼくの足を見ているんだね」(訳・中川敏)

と言ったのは、このとき彼にとって主体と客体が逆転してしまったことを示していると思います。精神の病気によるこのような逆転現象については、インターネットを検索すると専門家が書かれた文章を読むことができます。
シーモアがなぜこんな病気を発症してしまったのか、それは、作中にあるとおり、戦場での体験がきっかけだと思います。足を見られたあと彼が自殺しなければならなかったことを考えると、その体験は、足を見る=異性に関心を持つということ、あるいは、関心を持たれるということが、生命の危険につながるような何かだったと推察されます。(作者がこの具体的内容を語ることはついになかったそうです。)

シビルとシャロン・リプシャッツのエピソードは何を表しているのでしょう。とくに気になるのがこの部分です。

「ああ、シャロン・リプシャッツか」と若い男がいう。「どうしてそんな名前が浮かんできたのだろう?記憶と願望をかき混ぜながら(T・S・エリオットの長詩『荒地』の冒頭一句)、というわけか」(訳・中川敏)

シャロン・リプシャッツが彼の想像の産物と言っているみたいです。仮にそうだとすれば、シビルも同様でしょうか?
シビルは『荒地』の冒頭の引用句(下記)に登場するSibylと同じ名前です。

“For once I saw with my own eyes the Cumean Sibyl hanging in a jar, and when the boys asked her, ‘Sibyl, what do you want?’ she answered, ‘I want to die.’”(Satyricon, Petronius Arbiter)

甕の中にぶら下がったクーマエのシビルが「死にたい」と言うのと、バナナ穴のなかでバナナを食べ過ぎて死んでしまうバナナフィッシュのイメージは、どこか似ているように思います。
もしかすると、シーモア(作者)は戦場でこのような光景を実際に見てしまったのではないでしょうか。