陽だまり日記

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大好きな本や映画のことなど

「季節のない街」と「どですかでん」

季節のない街 (新潮文庫)

季節のない街 (新潮文庫)

山本周五郎氏の「季節のない街」は、黒澤明監督の映画「どですかでん」の原作としてよく知られています。本作を読んで、映画で分かりづらかった部分を補完できました。

どですかでん」は、時代や国籍をあまり感じさせない不思議な演出になっていると思います。その印象は、あの鮮やかな色彩に加えて、舞台となる『街』(原作でこう呼ばれています)が、ほぼ人工物でできていて自然が感じられないこと、さらに、そこに住む人々の衣服や持ち物に時代的な統一感が乏しいことなどから、生みだされているようです。
これは、酒屋や料理人や警官など『街』の外の人々が、明らかに昭和半ばの日本人なのとは対照的です。この対比から、映画全体の混沌とした感じが生まれていると思います。

ところで、原作「季節のない街」には、時代背景や、『街』の地理的な設定が詳しく書かれています。
本作の舞台は、昭和30年代後半、東京近郊の貧民街(『街』)です。『街』は、より生活レベルの高い『中通り』(六ちゃんの家/てんぷら屋、酒屋、交番、のんべ横丁等はこちらにあります)と隣接していますが、人々の交流はほとんどありません。
本作を読んでいると、上に記した時代や場所の設定が、映画の『街』からは意図的に削られているように感じました。どうやらこれは、原作者の思いを反映した黒澤監督の演出だったようです。というのは、原作のあとがきに、こうありました。

そしてまた、これらの人たちは過去のものであるが、現在もなお、読者のすぐ身ぢかにあって、同じような失意や絶望、悲しみや諦めに日を送っている人たちがある、ということを訴えたいのである。
それゆえ、「ここには時限もなく地理的限定もない」ということを記しておきたい。それは年代も場所も一定ではないのである。では、なぜこの「街」という設定をしたかというと、年代も場所も違い、社会状態も違う条件でありながら、ここに登場する人たちや、その人たちの経験する悲喜劇に、きわめて普遍的な相似性があるからであった。(「季節のない街」あとがきより)

たしかに、貧しさのあまりモラルの荒廃した『街』では、その分、人間の本質的な姿がありのままに現れます。もし自分が、この中に居たらどういう暮らしをしていただろうかと、考えずにはいられません。
(「季節のない街」について、もう少し次の記事に書きます。)