「季節のない街」
- 作者: 山本周五郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1970/03/18
- メディア: 文庫
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- 『街』の信仰について。
人々の数少ない心の拠り所について、次のように書かれていました。
ここの住人たちのつきあいは、物の貸し借りと、ぐち話の交換が中心になっている。他人は泣き寄り、という言葉がかれらの唯一の頼りであり、信仰であるようにさえみえる。物の貸し借りといっても、小皿へ一杯の醤油とか、一と摘みの塩とか、茶碗一杯の米ぐらいのものであるが、貸してやったほうは「源さんのとこもらくじゃないんだね」と思い、自分のうちにはまだ少しはゆとりがあるのだ、というささやかな心づよさと優越感をあじわえるのである。それはしばしば、相手にそういう感情をたのしませるために、必要でもない一と摘みの塩を借りにゆくという、隣人愛のあらわれともなるのであった。(「僕のワイフ」より)
優越感もこのくらいであれば、人間関係を円滑にするのに役立つようです。
ところが、『街』の外からの施与となると、ことは簡単ではありません。
あの有名夫人団は施与をすることによって、自分の贖罪意識と優越感を満足させようとした。貧乏人ほどこういうことに敏感なものはない、かれらは自分たちの貧窮が利用されたことを知って怒ったのだ、聖書にちゃんと書いてある、左の手でほどこしをするとき、自分の右手にもそれを知らせるなと。(「がんもどき」より)
(聖書にはそんなことが書いてあるのですね。いつか読んでみたいです。)
施しは、かつ子が岡部少年に抱いた複雑な思いの原因でもあったと思います。彼女は日々、彼の気持ちを嬉しく思う反面、軽く見られているのではないかという疑いを消せなかったのだと思います。彼女が起こした事件の後ろには、彼の気持ちが愛なのか、ただの優越感なのか、確かめたい気持ちがあったのではないでしょうか。
- 「がんもどき」の女性たちについて。
かつ子、たね子(かつ子の伯母)、かなえ(かつ子の母、たね子の妹)は、3者3様に強烈な個性があります。このエピソードは映画「どですかでん」にも収録されていますが、女性の造形に定評のあった成瀬巳喜男監督だったら、どんな映画になっていたかと、つい考えてしまいました。
- 「半助と猫」について。
独身で飼い猫と暮らしている半助は、いつも何かに脅えているようにおどおどして、近所づきあいをほとんどしません。生活は規則正しく、仕事ぶりは真面目そのものですが、なぜか、息を潜めるように物音をたてません。極め付けに、彼は菜食主義で、出汁をとるかつおぶし以外の魚・肉を食べません。
彼の暮らしぶりは、現代人を思わせるところがあります。いったい、何の仕事をしている人なのかと、思わず惹きこまれました。結局、半助は博打に使ういかさま賽の細工師だったことが、彼が謎の男たちに連れ去られ、『街』から消えてしまった後に分かります。…
たとえば、現代の大きな組織のなかで細分化された仕事の中には、人の役に立っていることを感じにくく、それで生計をたてることに罪悪感を抱かせるようなものがあるのかもしれません。ちょっと穿った見方でしょうか。でも、とても心に残るエピソードでした。
- 「たんばさん」のこと。
たんばさん=たんば老は、年齢不詳の彫金師で、本作の "ほのぼのエピソード担当" です。彼は多くの場面で『街』の人々の苦境を助けますが、その言動は何だか時代めいていて、まるで、近代化される前の日本社会にあった知恵や良心を押し固めたような人物です。作者は、人が人間らしく生きるヒントを、本作の最終章で、この老人に込めたのかもしれません。
映画「どですかでん」を見た時には、たんば老が救世主になれそうでなりきれないところが、正直、少し残念で、非情だとも思いました。でも、小説を読むと、彼はそういう存在ではないことを納得できました。彼はむしろ、作者の人間に対する希望の象徴で、誰もがちょっとずつ、たんば老のように振舞えば、世の中は少しだけ住みやすくなるということを、表していたような気がしました。