陽だまり日記

陽だまり日記

大好きな本や映画のことなど

「白夜を旅する人々」のこと

三浦哲郎さんの小説「白夜を旅する人々」を数年前に読んだことを思い出しました。

白夜を旅する人々 (新潮文庫)

白夜を旅する人々 (新潮文庫)

 

アルビノの姉妹が髪の毛を黒く染める場面がとても印象に残っています。

白いままでは共同体の中に入ることができないから……、読んでいて何ともいえない気持ちになりました。

描かれているのは昭和初期の日本ですが、考えてみれば、今でも、高校などで、地毛証明とか、茶色い髪の毛は黒染めをさせるとか、似たようなことが続いていると思います。違うものは同化させる文化(といっていいのか分かりませんが)が根付いているような気がします。

多様性の尊重ということを知識として教わっても、「郷に入れば郷に従え」みたいな昔からの考え方はまだまだ残っていて、結局ダブルスタンダードのようになってしまっているのかも…と、改めて気付かされました。

「関西弁講義」

関西弁講義という本を読みました。作者さんは関西弁を方言というより1つの独立した言語として研究しているそうです。

関西弁講義 (講談社学術文庫)

関西弁講義 (講談社学術文庫)

 

関西弁は母音が強くて、ヨーロッパの言語でいうと、イタリア語やスペイン語に響きが似ている。それに対して関東、東北、九州などの言葉は子音が強くてドイツ語や北欧語に響きが似ているというのが面白かったです!

私は東にも西にも住んだ経験がありますが、耳のほうはやや西に調律(?)されているらしく、子音の強い言葉を正確に聞き取ろうとすると難しいこともあって。母語に対する勘が働きづらくなるので、確かに外国語みたいに感じることもあります。

それで、日本の真ん中に母音の強い言語があって、端に子音の強い言語があるということは、日本語の古い言葉はどんなものだったんだろう?古いものは外側に残るというけれど…なんて思ったりしていたのですが、本書ではそれについても少し触れられていました。

アクセントに周圏論(古いものが外側に残る理論)を適用していいかどうかという問題はあるけど、子音優位な言葉がより古く、母音優位な言葉がより新しい可能性があると考える学者さんもいるみたいです。馬瀬良雄さんという方で「シンポジウム日本語5 日本語の方言」(1975年)という本に詳しい内容が収録されているとのこと。地元の図書館にあればチャレンジするのですが、残念ながら所蔵がないみたい。

でも、となると、日本語の起源説で、南から来た開音節の発音や語彙に、北から来た文法が導入されたというストーリーはどうなるのでしょう?

それから、大野晋さんのタミル語説は、日本語が開音節でタミル語が閉音節なのでそれも否定の理由になったと記憶していますが、それは一体?? 実は「日本語の源流を求めて」を読んでからずっと気になっています。

それとも、開音節があったところに、閉音節と文法が来て、さらに後に母音優位言語がやって来たとか?

謎は増えるばかりで全く収拾がつきません。

「ざぼん」「謝文旦」について

1つ前の記事に書きましたが、朱欒(ざぼん)と文旦は1つの同じ果物Citrus maximaを指します。

朱欒は中国語、ざぼんはポルトガル語(zamboa)。

文旦も中国語ですが、wikipediaによれば、中国の中でも南部の潮州語が伝わったもののようです。発音はブンタンまたはボンタン。今の台湾語でもそのように発音するようで、確かにどちらにも聞こえます

さて、上のwikipediaにあるように、日本には、中国の「謝文旦」という人が鹿児島に漂着した折にブンタンを伝えたという伝説があります。謝文旦は当時の潮州語読みでジアブンタン。一説によれば、謝文旦の名前から、日本では中が赤いのをジアブン(ざぼん)、白いのをブンタンというようになったとも。

これ、初めて見たときは、「またまた、うまいこと言っちゃって~」と思いました。文旦・文旦柚という言葉は台湾や中国に今でもあるといいますし、それなら、文旦という植物名が先にあって、「謝」は後からとってつけたんじゃない?なんて。

でも、それにしては上半分を取るとざぼんになるなんて、ずいぶんな偶然の一致です。

 

ここからは私の想像ですが、もしかしたら、ポルトガル語のzamboaが、もともとセイロン語のjamboleからきているように、謝文旦も原産地(付近)から音を写した呼び方だったのかもしれません。

例えばバングラデシュでは「jambura」というようです。これなんて、謝文旦に結構近いような気がします。

だとすると、現地では忘れられた古い名前が日本に伝説として残ったということになります。そうだったらすごいし、面白いなぁと思いました。

中「これはわが国の謝文旦、ジアボンタンっていう果物です。おいしいよ」

日「じ、ジアボ……?」(漢字でメモを取りつつ)

中「ジアボンタン、ボンタン。」

日「なるほど、ボンタン、ボンタン。」

みたいなやりとりを想像してしまいました。

ちなみに、「旦」の当時の意味は"役者"だったそうで、中国でも、文旦を人名とした伝説があるみたいです。謝文旦というのがたまたま人名っぽく見える字面だったから、親しみやすく言いやすい(?)ファーストネームの部分だけが残ったのかも?なんて、さらに想像してしまいました。

それに、もしそういうことだったのなら、中国に同じフルーツを指す2つの言葉、朱欒と文旦があった理由も納得できます。1つは中国で付けられた名前で、もう1つは外来語だったという。野球とベースボールみたいな。

何か個人的にかなりスッキリしたので、私の中ではもうこのmy説でいいかなと思いました……

「朱欒」「ざぼん」について

2つ前の記事で、江戸時代に書かれた「阿波志」・「阿波誌」の、柑橘類に関する記事を引用しました。

ざぼん 郷名ケムス又の名サブム、橙に似て大

 即ち仏手柑

宜母子 郷名スダチ、柚に似て小、以て酢に代るべし

橙 郷名ダイダイ

橘 郷名カウジ やや小なるもの和名タチバナ、最小にして黄のものを金柑と呼ぶ 越志に所謂金棗、恐らく是(越は支那の国名)

邏柚 郷名ハナユ

(「阿波誌」、「阿波志」の名東郡の項より 表記を一部改変して引用)

よく分からないところが幾つかあります。一番上の「郷名ケムス」について1つ前の記事に書きました。

さて、一番上の「ざぼん」は、「阿波誌」には平仮名でそう書いてありますが、元の「阿波志」には「朱欒」と漢字で表記されています。

朱欒は、日本語読みで「シュラン」、中国語読みでは「ヂュ ルゥァン」と読むそうです。欒は団欒の欒で、丸いという意味なんですって。一方、ざぼんというのはポルトガル語のzamboaが由来なのだとか。つまり、中国語表記をポルトガル語で読ませているということ。

なぜそんなふうになったのでしょう? ちょっと不思議です。

果物の実物はポルトガルから入ってきて、「これが舶来のザボンというものらしいよ」「よし育ててみよう」なんて、国中に広まった後で、学者さんが中国の図鑑を探して、「おお、これは中国の図鑑にある朱欒だ」と気が付いたとか、そんなことでしょうか。

 

「文旦」というのも中国語のようですが、中国の人は朱欒と文旦をどう区別していたのでしょう。今では全て1つの同じ果物Citrus maximaを指すようです。

「カブス」「カブチ」について

1つ前の記事で、江戸時代に書かれた「阿波志」・「阿波誌」の、柑橘類に関する記事を引用しました。

ざぼん 郷名ケムス又の名サブム、橙に似て大

 即ち仏手柑

宜母子 郷名スダチ、柚に似て小、以て酢に代るべし

橙 郷名ダイダイ

橘 郷名カウジ やや小なるもの和名タチバナ、最小にして黄のものを金柑と呼ぶ 越志に所謂金棗、恐らく是(越は支那の国名)

邏柚 郷名ハナユ

(「阿波誌」、「阿波志」の名東郡の項より 表記を一部改変して引用)

よく分からないところが幾つかあります。

まず一番上の「ざぼん」の項。ざぼん=ブンタンですが、郷名「ケムス」とは何でしょう? もしかして「カブス」が訛ったのかな?と思いました。橙に似ているともありますし。ブンタンがダイダイに似ているとは思えませんが、それはさておき。

広辞苑カブスの項には、カブスはダイダイの一種とあります。ダイダイの中には「カイセイトウ」(回青橙)と「シュウトウ」(臭橙)があり、後者がカブスに相当するらしいのです(公益財団法人中央果実協会)。

ところが別の辞書によれば、臭橙(カブチ)=マルブシュカン。

インターネットを見ていると、愛媛の八幡浜では、「われわれのカブスはダイダイとは違う、カブスカブスである」と感じている人もおられるようで、謎は深まるばかり。

そこで、日本方言辞典を見てみました。その「かぶち(臭橙)」の項によれば、次のとおりです。

「かぶち」とは……

1.だいだい(橙)を指す

『かぶち』三重県志摩郡、和歌山県西牟婁郡日高郡

『かぶす』長門、周防。日葡辞書Cabusu 蜜柑、レモンの一種、その果実のなる木

『かぶつ』伊豆八丈島、伊豆賀茂郡、東京都伊豆諸島

『がぶつ・がごつ』伊豆八丈島

『ごぶつ・こーぶつ』長崎県五島

2.ゆず(柚)を指す

『かぼす』大分県一部、宮崎県一部

3.ぶんたん(文旦)を指す

『かぼそ』大阪府一部

4.さんぽうかん(三宝柑)を指す

『かぶす』愛媛県一部

(日本方言辞典上巻より一部改変して引用)

ダイダイ以外に、地域によっては、ユズ、ブンタン、サンポウカンが「カブス」的な名前で呼ばれることがあるようです。

カブスは「柑子」の転訛という説もあります。古くは柑橘類一般を指していたのでしょうか。今の「みかん」という言葉のように。

 

「すだち」(酢橘)のルーツ

もうすぐサンマの時期です。サンマといえばスダチ。その遺伝的なルーツについての覚え書きです。

1.スダチは「カボス」の異母きょうだい。共通の父親(花粉親)がユズ。

ここまではっきり分かっていたとは!

2.カボスの母親は「クネンボ」。一方、スダチの母親は不明。

クネンボは東南アジア原産、ミカン科の植物で、日本には室町時代琉球経由で入ってきたもの(Wikipediaより)。断面の写真はダイダイっぽいなぁと思いました。

日本に入ってきてから在来種と混ざって、温州ミカンとか、ハッサクとか、もっとおいしい子孫がたくさんできたので、それ自体を食べることは少なくなってしまったみたいです。

カボス同様、クネンボ(種子親)×ユズ(花粉親)の組み合わせでできた、カボスの兄弟あるいは姉妹が4つ見つかっています。

  • 「ジャバラ」和歌山の特産品。"ナリルチン"という成分が花粉症に効くというので有名。
  • 「モチユ」(餅柚)高知、四万十川流域の特産品。"ぶしゅかん"と呼ばれていて、赤身魚に絞ると美味しいらしい。
  • 「ヘンカミカン」
  • 「キズ」(木酢)九州の特産品。

どれも食べたことがないばかりか、生の果実を見たことすらないのが残念です。

3.スダチの直接の母親は不明。

2016年に、日本の柑橘類を、メジャーな温州ミカンなどから、クネンボなど古いものや、ジャバラなど"知る人ぞ知る"といったものまで含めて、相当数を集めて調べた結果が出たのですが、直接の母親(種子親)は見つからなかったみたい。ちょっとがっかり、でも何だかミステリアス。

4.スダチの母親には、「ブンタン」(文旦)や「コウジ」(柑子)が関与している可能性がある。

スダチの細胞質のDNAはブンタンと共通している」という研究結果(1993年)と、「コウジと共通している」という研究結果(2016年)があります。

いずれにしても、どちらも直接の親というわけではないらしく。人間でいうと、"ミトコンドリア・イブ"が直接の親じゃないのと同じ?

2016年のほうに、コウジ型の細胞質DNAは「タチバナ」ともよく似ているので、スダチ、コウジ、タチバナは、祖先に共通点が多いか、祖先が共通しているのかもしれない的なことが書いてあるみたいなんだけど……よく分かりません。ちょっと難しすぎてお手上げです。一説によるとコウジの花粉親はタチバナだそうで、ますます混乱。

でも、コウジ、タチバナ、ユズ(、ブンタン)などがお互いに受粉し合って、親子になったり兄弟になったり、いろいろしてるうちに、いつの間にかスダチになったっていうことなのかな?

酢橘と名が付いているぐらいだから、土地の人は橘の一種だと思っていたのでしょうか。見た目が似ているとかで。橘も柑子も自分で見たことがないのが残念です。でも、脱線しますが、橘と温州ミカン?マンダリン?が交雑してできたといわれている三重県の「新姫」は、ぱっと見はスダチにそっくり。

 

ちなみに、スダチにユズを掛け合わせてできた、「阿波すず香」という新種があります。スダチが母親(種子親)、ユズが父親(花粉親)。味・香りは両方の特徴があるそうです。見た目はかなりユズっぽくなっているのに驚きました。

 

とりとめもない感じになってきましたが、最後にもう一つだけ。江戸時代に書かれた「阿波志」という古文書に出ている、名東郡の特産品にミカン類がたくさん入っていたのでそれをメモしておきます。

ざぼん 郷名ケムス又の名サブム、橙に似て大

 即ち仏手柑

宜母子 郷名スダチ、柚に似て小、以て酢に代るべし

橙 郷名ダイダイ

橘 郷名カウジ やや小なるもの和名タチバナ、最小にして黄のものを金柑と呼ぶ 越志に所謂金棗、恐らく是(越は支那の国名)

邏柚 郷名ハナユ

(「阿波誌」、「阿波志」より 表記を一部改変して引用)

名東郡は今の佐那河内村に相当し、今でもたくさんスダチが栽培されているそうですが、昔からミカン類の産地だったのですね。

「君が戦争を欲しないならば」

高畑勲さんの「君が戦争を欲しないならば」を読みました。講演の書き起こしで、とても短くすぐに読めます。

君が戦争を欲しないならば (岩波ブックレット)

君が戦争を欲しないならば (岩波ブックレット)

 

日本人の和を重視する考え方は戦後も全く変わっていなくて、いったん戦争が起きてしまえば大多数の人は協力せざるを得なくなるだろうという部分が特に印象的でした。

それから、戦後、日本の国民が自分たちで戦争責任を追及しなかったことが今につながる問題になっているというのは、小澤俊夫さんも全く同じ事を書いていたので…暗澹たる思いになりました。

「空気」とか「流れ」というワードの威力には私も驚くことがあります。実体がないような言葉なのに、表面上は説得力というか問答無用の圧力を持つのが不思議で。なるべく使わないように、使うにしてもよく考えないと……と思いました。

片目の神様のこと(8)

片目の神様の伝説に付随する作物禁忌について、「それを作らない」という地域の近くには、それをたくさん作る地域があるのかも……?と、ふと思い付きました。

仮に、P村に氏神Q様がいた。そこに新しくRという有力者が移ってきて、P村にもともとなかった植物Sを植えた。Q様を祀る勢力は以前より衰えた。それで、Q様の氏子たちは、Q様がSで怪我をしたので~と言い伝えるようになった。とします。

(昔はどういうきっかけで、どういう規模で人々の移動が起こっていたのか、それについての知識がないのですが、)

でも、もしかしたら、移住側が大きな勢力だったら、1箇所だけではなくて、その周辺にも住み着いて、(古い住人に受容されなかった)新しい植物をたくさん育てたんじゃないかな?と思ったんです。

想像がたくまし過ぎるでしょうか(笑)。

片目の神様のこと(7)

数えてみたらこのブログで片目の神様のことに触れるのは7回目でした。

柳田国男さんの「日本の伝説」に収録されている片目の蛇の話は、何だか「金枝篇」みたい?と思ったので、片目・一つ目のことを考察している別の本の該当箇所を見てみました。

山の神

山の神

 

1つ分かったのは、「古事記」「日本書紀」に、ヤマトタケルノミコトの進軍を邪魔した白鹿(山の神の化身)を、ミコトが蒜の枝で目を打って殺したという話があって。ここでは片目にはならないのですが、筆者はこれが片目伝説の記録された最も古い形と考えたようです。

蒜は「ひる」と読み、ニンニクのことらしいです。

大事な部分をちょっとだけ引用します。

右の挿話に従えば、山の神は目を射られて確かに「殺された」とはいえ、それにより本当に神の活動に終止符が打たれたわけではないので、この場合もともと殺害の話では少しもなく、片方の目の失明だけが伝えられたのではないかと考えたい。(中略)

これらの山の神は、敵対して征服された住民の神となっていた。この場合は、祀られている神の目の怪我の原因となった植物が、通常はひろく忌避されているのとは正反対である。(敵対する)神の目に当たった植物はこの神に対して威力があるとされる。そして右の挿話の舞台となっている地方が、現在二月八日に目籠や柊、葫を使って一つ目の疫病神を追い祓う地域の一部であることは注目に値する。

(ネリー・ナウマン「山の神」311ページより)

 *葫は「にんにく」と読むそうです。

 

こうなってくると、鬼を柊や桃で追い払うっていう話とも似ているなぁ…と思えてきます。でも、鬼を追い払う植物は、当たり前ですが、植えないとか育たないとかいう話にはならないところが片目伝説と違います。

鬼を柊で追い払うというのは、当然人間(討伐した)側から見た伝説ですが…、

 

片目の神様+植物禁忌の伝説は、鬼を追い払った出来事を、討伐された側から見た話なのでしょうか。

片目伝説に付随する植物禁忌は、ゴマだったり、大根だったり、キュウリだったり、生活に密着していて、手近にあったほうがいいものばかりで、栽培を禁止するのはそれなりの理由が必要なように思います。

それは滅ぼされてしまった古い神の供養なのでしょうか。(それとも、物語のまま考えるなら、九死に一生を得た神が二度と傷つけられないことを祈願しているのでしょうか。)

柳田国男さんの「日本の伝説」や「一つ目小僧その他」の片目の神様の項に、御霊信仰のことも詳しく述べられていて、両者は親和性があるらしいことがうかがえます。つまり、植物で目を怪我された神様というのは、御霊のような、祟り神のような側面があるのでしょうか。

 

片目というのは、急所を撃たれたことと、それでも完全にいなくなったわけではないという、境界的な存在であることを示しているのでしょうか。

「日本の伝説」(片目伝説6)

柳田国男さんの「日本の伝説」は青空文庫で読めます。良い時代になりました。

この中に片目の神様について記述された箇所があります。

久々に読み返して、とても気になる部分を見つけました。取りあえず、忘れないように引用しておこうと思います。

飛騨ひだ萩原はぎわらの町の諏訪すわ神社では、又こういう伝説もあります。今から三百年余り以前に、金森かなもり家の家臣佐藤六左衛門という強い武士さむらいがやって来て、主人の命令だから是非この社のある所に城を築くといって、御神体を隣りの村へうつそうとした。そうすると、神輿みこしが重くなって少しも動かず、また一つの大きな青大将が、社の前にわだかまって、なんとしても退きません。六左衛門このていを見て大いにいきどおり、梅の折り枝を手に持って、蛇をうってその左の目を傷つけたら、蛇は隠れ去り、神輿は事故なく動いて、御遷宮をすませました。ところがその城の工事のまだ終らぬうちに、大阪に戦が起って、六左衛門は出て行って討ち死をしたので、村の人たちも喜んで城の工事を止め、再びお社をもとの土地へ迎えました。それから後は、折り折り社の附近で、片目の蛇を見るようになり、村民はこれを諏訪様のお使いといって尊敬したのみならず、今に至るまでこの社の境内に、梅の木は一本も育たぬと信じているそうであります。益田ました郡誌。岐阜県益田郡萩原町)

この話、何だか「金枝篇」に似ている? と思うのは私だけでしょうか。

金枝篇」と違うのは、蛇は梅の枝で傷を負っても死なず、それ以来梅が育たなくなったという部分です。

つまり、古い王が新しい王に取って代わられることはなく、そればかりか、以後は古い王が傷つくことのないよう、梅が育たなくなってしまうという……

同様に、氏神がある植物で目を傷つけたので、以降その植物を忌んだというような話は日本各地にあるそうです。

全くの素人考えですが、新しい王に駆逐されてしまった、古い王を偲ぶ伝説のように思えます。

 

似たような話がもう1箇所あったので、こちらも忘れないように引用。

加賀の横山の賀茂かも神社においても、昔まだ以前の土地にこのお社があった時に、神様が鮒の姿になって御手洗みたらしの川で、面白く遊んでおいでになると、にわかに風が吹いて岸の桃の実が落ちて、その鮒の眼にあたった。それから不思議が起って夢のお告げがあり、社を今の所へ移して来ることになったといういい伝えがあります。神を鮒の姿というのは変な話ですが、お供え物の魚は後に神様のお体の一部になるのですから、上げない前から尊いものと、昔の人たちは考えていたのであります。それがまた片目の魚を、おそれて普通の食べ物にしなかったもとの理由であったろうと思います。(明治神社誌料。石川県河北かほく郡高松村横山) 

桃といえば魔除けの桃。神様がそれでケガをするなんて不思議です。

つまり、この伝説の視点は、桃が当たった古い神様側ではなく、桃を当てた側、社を移した新しい神様側にあるということかも…と思いました。