陽だまり日記

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大好きな本や映画のことなど

「神、人を喰う - 人身御供の民俗学」

博士論文の書籍化なので、はじめは難しいかな?と思ったけれど、 人身御供や人柱の、研究の歴史が素人にも分かりやすく説明されていて、なんとか最後まで読めました。

神、人を喰う―人身御供の民俗学

神、人を喰う―人身御供の民俗学

 

人身御供の伝説や昔話は、今でも、沢山語り継がれていますし、人身御供を模したお祭りも数多くあります。

それは、突き詰めると、人々の中にある、根源的な暴力への欲求を表したものだと、作者は結論付けたようです。

 

ここからは、私の考えです。

人身御供は、本人にとっては他者の利益のために自分の命を差し出すことであり、それ以外にとっては、自分(達)の利益のために他人の命を奪うことです。

その利益とは、五穀豊穣、災害の防止や鎮圧など。

…つまり、自殺 or 殺人により、自然をコントロールできるという考え方です。どうして繋がるの?と、不思議に思いますが、それこそ、"神の嫁" であったり、"穀物神の死と再生" であったり、さまざまな信仰が介在しているのだと思います。

でも…、そんなややこしい間接的な信仰が、最初からあったのでしょうか…。

日々食べられるかどうかという生活では、人身御供の直接の利益は、まず、飢餓を癒すため、食べるためだと思うのです…。あるいは、船上で嵐に見舞われた際には、乗組員を減らして船体を軽くするための人身御供が、あったと思います…。当初は、こうした人々の直接の利益のために行われていた殺人が、後に、信仰と結びついたとは考えられないでしょうか。

言い換えると、人々は、集団が命の危機に瀕した時、少数を犠牲にして、集団を存続させることを、昔から行ってきていて…、それが、農耕(自然のコントロール)の進歩とともに、信仰と結びついて儀式化したのでは、ないでしょうか…。

そんな儀式を、人々が好んで行っていたとは、とても考えられません。上記の本では、人間には暴力への根源的な欲求があることが、指摘されていましたけれど…、逆に、非暴力への欲求も、あるはずです。

なぜなら、人間は、集団を作って暮らす社会的な生き物だからです。そのコミュニティのなかで(あるいは近辺で)殺人をすれば、集団を壊してしまう恐れがあります。その危険を冒しても人身御供をしていたとすれば、それは、自然を手なづけて食糧を得て穏やかに暮らすことが、本来、非常に難しいということを、示しているのだと思いました…。

人身御供は本質的には、殺人だと思いますが、時に犠牲者が自分から命を差し出すように仕向ける工夫をしたり、旅行者などの第三者から選んだり、社会的弱者から選んだりするのは、仲間殺しの衝撃を少しでも和らげるためのように、思います。

ですから、人身御供の伝説・昔話・祭りが今に伝わっている理由も、私は、普通には受け入れ難い習俗を人々が受容するためでは…?と、何となくそんな気がしました。