「セッション」(2014、アメリカ)
「セッション(原題:Whiplash)」を観ました。無茶苦茶過ぎて、すごく面白かった!
有名な映画らしいのですが、内容をよく知らずに寝る前に見始めてしまって。黒っぽい画面で眠くなるかと思いきや、逆に目が冴えて、とうとう最後まで観てしまいました。
主人公は音楽学校に通いジャズドラマーを目指す青年。で、先生が鬼みたいなオジサン。強烈なパワハラ・モラハラを日常的に繰り返します。何せ、"Good job=人を一番駄目にする言葉"という恐ろしい信念を持っているので。叱って伸ばすというより、どれだけ踏みつけられても倒れなかった者だけが生き残れるシステム。一瞬見せる優しげな顔は常に地獄の入り口で、学生が粉々になるまで罵倒するための助走なんです。
でも、その罵倒があまりに酷すぎて、突き抜けていて、終始一貫してハイテンションなので、それはすごく面白かった…! 中でも3人のドラマーに代わる代わる罵声を浴びせるシーンは圧巻でした。
そして、主人公のほうも鬼に負けず劣らずかなり濃いキャラクター。自己顕示欲の塊というのでしょうか。がむしゃらに練習して、時には先生に反論したり掴みかかったりもします。
どなたかのレビューに「殴り合い」と書かれていましたが、まさにそんな様相です。一方的ではないので、ハラハラしながらも見続けることができたと思います。
問題のラストシーン、演奏する曲目を伝えなかったのはなぜか。あちこちのレビューやWikiを見ると復讐という解釈がほとんどでしたし、デミアン・チャゼル監督のインタビューでは、明言されていませんが、彼のコメント↓を読むとやっぱり復讐かなと思いました。
この映画では、フレッチャーのやることなすことをできるだけ極悪非道で許しがたいものにしたかったんだ。実際、暴力的な指導というのが偉大な音楽家をつくるというジャズ業界の雰囲気を否定することはできないからね。
でも、1つ気になるのは交代のドラマーがいなかったこと。もしかすると、曲目を伝えないぐらいでは主人公は諦めず、戻ってくることを予想していたのかもしれません。
つまり、そういう単純な復讐ではなかったのかも。
では、何だったんでしょう。
そこで、もっと気になるのが、最後の最後でフレッチャーが「Good job」と言ったように見える場面(口元が隠れているので何と言ったかはっきり分かりません)。
ここは、青年が素晴らしい演奏をしたので、パワハラ先生が感極まってついに褒めた=ハッピーエンドという解釈が多いようですが、何だか違和感があります。
だって、"褒めたら終わり"というのが、自殺者を出しても揺らがなかった彼の信念なのですから。そんな男が本当に「Good job」と言ったなら、それこそが主人公を徹底的に潰すための復讐だったのでは?とも考えられるような…でも、だとしたら、もはや怖すぎてサイコホラーです。
結局、何と言ったのかはっきりとは映っていませんし、本当のところは分かりません。ただ、監督のコメント↓は、ハッピーエンドと仮定すると何か引っ掛かります。
僕がイメージしていたエンディングと、実際スクリーンで映されたエンディングが違うもののように感じたんだ。多分思い描いていた時点では、まだ音楽そのものが影響してこなかったから。
最後のシーンを見た人はその結末に対してちょっと嫌な気持ちになるかもしれない。でも同時に混乱させるような疑問も残すことができたらいいなと願っている。
チャゼルが言いたいのは、つまり、映画を観ただけでただ結論づけないようにしてほしいということ。アンドリュー・ネイマンの辿った結末について満足しているのか、それとも喪失感を覚えているのかということを考えてほしいということなんだ。
「アマテラスの誕生」
「アマテラスの誕生」という本を読みました。これはショックでした。
作者は代々神主さんの家に生まれ、初め神主だったけれども、戦後高校の先生に転職されたのだとか。
その(元)神主さんによれば、日本人が信仰している自然神は、古くは海の向こうから来る神様。そして、少し新しく、天から降りてくる神様。そういう大きな神様が山、木、水、石、鏡など身の回りのものに宿っているので、それを祀っているのだそうです。
私の曾祖母は家の裏山に石を祀ってお参りしていたと聞いたことがあります。山に石?自分で??と思っていましたが、上のようにはっきり説明されると、何となく、ナルホド……と納得されます。
確か映画にもなったかと思いますが、山から木を運ぶお祭りも、天から来た神様をそうして運んでいたのですね。
日本の自然宗教は何にでも神様がいるんだとただ漠然と思っていて、肝心なことをなんにも知らないでいたんだなあ……と、ショックでした。
それから、伊勢の天の神様は田植えの時期にサルタヒコと呼ばれるそうです。(サルタヒコも、アマテラスも、同じ天の神様なのだそうです。)
ということは、昔話の「猿婿」って、その猿だったのでしょうか。ラジオ「昔話へのご招待」で聞くたび、猿がどうして田の神なのか不思議だったので、これにも驚きました。
もう一つ、日の神様が蓑と笠を身に着けるというのにもびっくり。笠が日を表象しているという説明でしたが、分かったような分からないような。今の感覚では何だか庶民的な格好のような気もします。
でも、こちらの本を思い出しました。
村人が大事な集会に出るときに蓑と笠を身に着ける場面があったような…。でも、ずっと前に読んだので記憶違いかもしれません。
実話を基にした小説なので細部は作者の想像かと思っていましたが、細部まで何かに基づいて書かれていたのかも……。
人生を彩る糸!
私も編み物が好きです。全然上手じゃないし編むスピードも遅いし大したものは作れないのですが、それでも冬になると、今年はどんな帽子を編もうかな?とワクワクします。なぜ帽子かといえば、マフラーや手袋、靴下よりも早くできるから。
何を編もうか考えたり、毛糸やさんで毛糸を見ていると、楽しくてつい時間を忘れてしまいます。だからやめられないし、下手っぴな帽子etc.と毛糸は増える一方です……。
「YARN 人生を彩る糸」は、編み物をクラフトというよりもアートとしてされている方々のドキュメンタリー映画です。
アートだから個性的な作品がたくさん出てきて、見ているだけで楽しかったです。手編みの楽しさを改めて実感しました。
ハロウィンのこと
ハロウィンが近いので、「ケルト 再生の思想」を少しずつ読んでいます。
ケルト 再生の思想――ハロウィンからの生命循環: ハロウィンからの生命循環 (ちくま新書)
- 作者: 鶴岡真弓
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2017/10/05
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (1件) を見る
ハロウィンって何なのか、やっと分かりました。
秋と冬の狭間の、日本で言う立冬の時期が、ケルト民族にとっては1年の始まりであり、先祖の霊(とかいろんな霊)が帰ってくる時期で、つまり、文字通り「盆と正月が一緒に来たような」お祭りのようです。
ちなみに、他の季節の変わり目にもそれぞれの祝祭があるのだとか。
日本では、旧正月が立春の頃、お盆が立秋の頃。どちらもケルトと時期は違いますが、季節の変わり目なのは同じです。
季節の変わり目には、この世とあの世の境界があいまいになり、霊がこちらにやってくるという信仰が、世界各地にあるのかもしれません。
旧正月前日の節分にも「鬼は外」がありますし、昔話で、おおみそかの晩に神様がやって来るというのも、ひょっとしたらその類なのでしょうか。
興味深いことに、七夕やお盆の時期に、北海道では"Trick or treat"と似た行事を行っている地域があるそうです(ローソクもらい - Wikipedia)。これは、青森のねぶた祭りで行われていた(子どもたちによる?)ろうそく集めが、北海道で根付いて、時代を経てお菓子集めに変化したのだそうです。
上記のWikipediaによれば(こちらのブログから引用したようですが)、お盆には、日本各地で、子どもたちが自分で材料を集めて行う「精霊送り」等があるといいます。残念なことに、私は全く経験がありません。
お盆に子供がする「精霊飯」という行事に関して、柳田国男さんの「こども風土記」にこんな記述があります。
ままごとは親が見ても静かでしおらしくまた他日の修練にもなって、同情のもてる遊びであったが、それが最初から遊戯として生まれたものでないことは、盆のままごとの一つの例を見てもわかる。
浜名湖 周囲の村々ではショウロメシ、瀬戸内海のある島では餓鬼飯 とさえいう通り、盆は目に見えぬ外精霊 や無縁ぼとけが、数限りもなくうろつく時である故に、これに供養 をして悦 ばせて返す必要があったとともに、家々の常の火・常の竈 を用いて、その食物をこしらえたくなかった。それが門 ・辻 ・川原 等に、別に臨時の台所 を特設した理由であり、子どもはまた触穢 の忌 に対して成人ほどに敏感でないと考えられて、特に接待掛りの任に当ったものと思われる。
子どもが行うことにも、それなりに意味があるのですね。「七歳までは神のうち」とも言いますし、大人よりも精霊に近い存在と考えられたのかもしれません。
ハロウィンの"Trick or treat"にも、やはり、意味があるのでしょうか。
「日本語の源流を求めて」
大野晋さんの「日本語の源流を求めて」を読みました。
日本語が、インド南部のタミル語と関係があるという説です。
専門家の間でも賛否両論とのことで、私も、正直、最初は、インドなんてずいぶん遠いなあと思いました。
でも、読んでみたらとても面白かったです。日本語の語幹に共通するニュアンスがタミル語にも共通していて、片方だけでは考えすぎみたいでも、両者を突き合わせると説得的になるというのは、ナルホドーと思いました。
そもそも、インドの言葉は、ヨーロッパの言葉と仲間なのだとばかり思っていましたが、それは北インドの言葉で、タミル語をはじめとする南インドの言葉はまた違う"ドラヴィダ語族"なのだとか。しかも、ドラヴィダ語というのは、語順や文法が日本語と似ているといいます。そうだったんですね……。
そうなってくると、素人考えですが、日本と遠いからこそ類似点があるのかもしれません。言葉や言い伝えは、古いものが周辺に押しやられて残るという考え方があるそうですから。
それに、日本語の起源というと、私は今まで、北か南かどっちなのかしらと、いつも思っていましたが、お米と一緒に西から来たということも当然考えられるわけです。今更ながら目からウロコが落ちました。
お米と一緒に西から人々がたくさん来たんだ……と想像してみると、縄文人、弥生人のイメージも広がりました。今までは何となく縄文人が相当数いたところに弥生人がやってきて、そこそこ平和的に共存して、稲作を広めたみたいに思っていました。
でも、アメリカやオーストラリアのように、後からやってきた人々が前からいる人々を圧倒してしまうことだってあり得ます。アメリカやオーストラリアにヨーロッパから入って住んでいる人は、以前の住民と混血はしているでしょうが、文化的には連続していません。縄文人と弥生人の関係も、そういったものであった可能性があると思いました。
「灼熱の魂」(2010、カナダ)
久々に映画を見ました。やらなければいけないことがあるのに、それをやらずについ最後まで見てしまいました。
双子が生まれてすぐ付けられた名前が分かるところが、とても印象に残っています。
癒し
眺めているだけで楽しくて、久しぶりに本を衝動買いしてしまいました。
作ってみたら、とても癒されました…! 10号レース針で40番レース糸etc...にビーズを編み込んでいきます。
こういう小さな物たちの、色の組み合わせを考えていると時間を忘れてしまいます。アルファ波的な何かが出ている気がするのが不思議です。
かぎ針ひとつでやさしく編める ビーズで楽しむ オヤのアクセサリー (暮らし充実すてき術)
- 作者: C・R・Kdesign
- 出版社/メーカー: 高橋書店
- 発売日: 2018/04/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログを見る
「きみはいい子」「世界の果てのこどもたち」
中脇初枝さんの「きみはいい子」と「世界の果てのこどもたち」を読みました。
中脇初枝さんが「魚のように」でデビューされたときのことは、鮮烈でよく覚えています。確かTVドラマにもなって、それを見た記憶があります。
なので、「きみはいい子」は随分前から気になっていましたが、何となく読む機会を逃していました。最近、中脇さんご自身がラジオ「昔話へのご招待」で小澤先生と対談されて、作品の話題が出てきたので、そういえば…と手に取りました。
小澤先生が何度も言われたように、どちらも本当に素晴らしくて、引き込まれて一気に読んでしまいました。
具体的にどこが素晴らしいかうまく言葉が見つかりませんが、昔話と同じように、使っている言葉は平易で、読みやすく、映画を見ているように自然に物語の中に入れる感じがします。小説の内容は、社会の暗い面を描いていてシビアではありますが、語り口が淡々としていて、さりげなく「神様は扉を閉めるとき窓を開ける」みたいなことが描かれているので、目をそむけたくなるようなことにも時には向き合っていかなければという、勇気をもらえます。
「きみはいい子」は現代もので、新興住宅地で起きる学級崩壊、いじめ、子どもへの暴力、介護等の諸問題をオムニバス形式で描いた作品。「世界の果てのこどもたち」は太平洋戦争中の、中国残留日本人孤児、在日朝鮮人、戦災孤児等を描いた作品です。
同じ作者の、他の作品も読んでみたくなりました。
海街diary
大好きな作品です。
中でも、ヒマラヤの鶴のエピソード(4巻)が良かったです。
この作品は子どもに救いがあるところがいいなと思います。
救いのないような作品を描いてきた作者だからこそなのかなとも。
ネガとポジは表裏一体と思えて、自分自身の希望にもなります。