陽だまり日記

陽だまり日記

大好きな本や映画のことなど

池上さんが解説する仏教の本

私が、特別無知なのかもしれませんが…、考えてみると、仏教とのかかわりは不思議です。
家に仏壇があって、お葬式など法事にはお坊さんに来てもらうのに、その教えの内容はほとんど知りません。家族でも、仏教を話題にしたことは少なかったような気がします。肝心のお経が外国語(インドの言葉)で、全く意味がわからないのも、よく考えてみると、謎です。

この本を読んではじめて、ブッダがとても論理的な人で、人生の困難に対応するための心理学や、哲学を体系的にまとめたのが仏教だということを知り、興味をもちました。
池上さんとチベットのお坊さんとの対談のなかで、結婚しなければ、家族のことを心配する必要がなく立場がシンプルになるという考え方が紹介されていたのは、新鮮でした。知らず知らずのうちに固定観念に囚われ、多くを求めすぎていたのかもしれません。
もうひとつ、現世での行いが、来世に影響するという輪廻の思想を、改めて目にして、少し気持ちが楽になりました。誰でも失敗を経験しているのだから、自分の失敗を特別酷いものと思わず、改善できるように努力していこうと、前向きな気持ちになれました。また、この思想には、自分の問題が他人にも影響するような、呪術的?な考え方を排して、自他の区別をより明確にする意味もあるように思いました。

「告白」

告白 (中公文庫)

告白 (中公文庫)

明治時代に大阪で起きた、"河内十人斬り" 事件が元になった小説です。

主人公の城戸熊太郎が、十人を惨殺してしまうに至った経緯が、細かく描写されています。
熊太郎が、自分と世間のギャップを埋めるために、頭のなかで一生懸命考えているうち、いつの間にか論理が飛躍して、とんでもないことになってしまうのが、何だかリアルに感じられて怖かったです。
何をもとに、作者が熊太郎をそのような人物として描いたのか、気になりました。

熊太郎は、内と外との折り合いがつかず破滅してしまったのに、結果的に世間に支持されたのは、皮肉です。引き返せる地点は、なかったのでしょうか…。

人間は、過度のストレスがかかると、普段、「絶対にやってはいけない」と思っていることを、逆に、「絶対にしなければならない」と勘違い?してしまうことがあるのかもしれません。それが、内に向けば自殺してしまうし、外に向けば大惨事になってしまうのだと思いました。
でも、それが、本当に勘違いなのか、そうでないのか…、熊太郎の場合でも、世間に支持されたのですから、何とも言えないところがあります。(この問題がしばしば映画になるのはそのためかもしれません。)

「サイダーハウス・ルール」(1999、アメリカ)

サイダーハウス・ルール [DVD]

サイダーハウス・ルール [DVD]

孤児院で育った主人公ホーマー(トビー・マグワイア)が、育ての父親の跡を継いで医師になることを決心するまでが描かれています。

ホーマーは、孤児院に勤務するラーチ医師により子供のころから十分な医学教育を施されますが、正規の学校へ行っていないことや、妊娠中絶に対する抵抗感から、医師として生きていく決心を付けかね、"ハーフ&ハーフ" とばかりに孤児院を飛び出してしまいます。そして、外の世界でリンゴを摘んだりエビをとったり、恋愛を経験したりしているうちに、自然に気持ちが固まっていく…というストーリーです。

不思議と、気持ちの深い所に訴えかけてくるような作品で、原作を読んでみたくなりました。

「旅立ちの時」(1988、アメリカ)

FBIに追われる両親をもつ高校生ダニー(リヴァー・フェニックス)が、将来の夢を見つけて、両親のもとから巣立つまでが描かれています。(Wikipedia によれば両親のエピソードは、事実に基づいているそうです。)

主人公ダニーの言葉少な&陰のある雰囲気が印象的で、物語の結末も気になり、最後まで一気に観てしまいました。
見どころも沢山あって、中でも、映画の中でダニーがピアノを演奏する最初のシーンは、ベートーベンの「悲愴」を、自分で弾いているように見えました。スゴイです…。他にも、リヴァー・フェニックスがメガネをかけたり、髪の色を変えたり、ピザ屋に変装したり、自転車に乗ったり野球をしたり木のぼりをしたり、恋人とデートしたり踊ったり…、ファンにはたまらない名場面?が満載です♪

本作を観た後に、やっぱり美少年だったなぁ…なんて思いながら、改めてWikipedia などを読んで、大変驚きました。彼の実際の人生は、映画よりもずっと過酷だったようです。

リヴァー・フェニックスの両親はヒッピー世代で、幼い子供を連れて放浪生活をしたり、新興宗教に入信したりしていて、子どもたちは学校に行ったこともなかったそうです。

また、リヴァーは7歳の頃菜食主義に目覚め、動物愛護や環境保護の活動に熱心だったそうです。とても繊細な子供だったのかもしれないし、もしかすると、危険に満ちた世界が、幼い頃ごく身近にあったのかもしれません。

倭のこと

日本という国号が使われるようになる前の、"倭" は、九州一帯を指すという意見と、近畿(以東も?)を含むという意見があるようです。

先日、近代デジタルライブラリーで偶然見た、こちらの本は、倭=九州としていました。
紀記論究. 建国篇 神武天皇(松岡静雄)
紀記論究. 建国篇 大和缺史時代(同上)
(松岡静雄氏は、柳田国男さんのお兄さんだそうです。)

今は、魏志倭人伝に出てくる邪馬台国は、近畿説が注目されているようですが、昔は、倭=九州という意見も多かったようです。

また、上のシリーズでは、天孫一族による出雲の征服は、祟神天皇の時代に起きたとしています。祟神天皇は、Wikipediaによれば、「3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王」とされているようです。
出雲が大和にとって代わられたのが具体的にいつ頃なのか、疑問でしたが、とりあえず、西暦200〜300年頃?と考えることにしました。

司馬遼太郎さんの著作のなかに、奈良の三輪山の麓に住む人が、「オオミワはんは、ジンムはんより先や」と、言い伝えていたというエピソードがあります。2000年近く昔の記憶が言い伝えで残っているなんて、本当に、ビックリしてしまいます…。

「国号の由来」

喜田貞吉「国号の由来」(青空文庫)
"日本" という国号がいつから始まったのか、その考証です。
80年くらい前に書かれたものですが、とても面白かったです。
卑弥呼の話も出てきます。九州にもヤマト(山門)という地名があり、そこに女性の首長がいたという話は、特に印象的でした。邪馬台国は名前の通り、大和にあったのかな?と思っていましたが、そんなに単純なことではないようです。

「平将門」

幸田露伴「平将門」(青空文庫)
平将門は、なんとなく、平安時代に、関東で大暴れした人…?と思っていましたが、幸田露伴氏の「平将門」を読むと、大分イメージが変わりました。

将門は早くに親をなくしたので、相続した財産を親族に狙われ、若い時から苦労していたようです。それで、一族と小競り合いを繰り返すうちに、地元や付近の国々で人望を集めて、遂に謀反の頭領に担ぎ上げられてしまったようです。将門が人を集めた背景には、彼と反目していた、地方の権力者に対する反感がまん延していたことがあったようです。また、それが謀反という大事になってしまったのは、将門に協力していた興世王や将門本人が、皇室の子孫であったことが影響したのかもしれません。

平将門(一派)は、人気、実力、血筋の3つを兼ね揃えていたので、より良い為政者として期待された一方、朝廷と土地の古い勢力にマークされて、徹底的にうち滅ぼされてしまったようです。彼に期待した人々、彼を疎ましいと思った人々、どちらも大勢いたので、今になってもその記憶が残っているのだと思いました。


ところで、将門と親族との確執について、印象に残った個所があったので本文中から引用します。

幼子のみ残つて、主人の亡くなつた家ほど難儀なものはない。(略)そこで一族の長として伯父の国香が世話をするか、次の伯父の良兼が将門等の家の事をきりもりしたことは自然の成行であつたらう。後に至つて将門が国香や良兼と仲好くないやうになつた原因は、蓋し此時の国香良兼等が伯父さん風を吹かせ過ぎたことや、将門等の幼少なのに乗じて私をしたことに本づくと想像しても余り間違ふまい。

私の身の回りでも、昔話としてこの類のエピソードをきいたことがあります。親の不幸に乗じて親戚一同が、土地や財産を自由にしようとするなんて、随分非情な話だなぁ…と、あまりの寒々しさに恐ろしくなりましたが…、私がナイーブだっただけで、ごくありふれたことだったのかもしれません。

蛭子(ヒルコ)のこと

先週のラジオ「昔話へのご招待」では、南米インカの創世神話が紹介されていました。
このなかに出てきた、骨のない太陽の息子のお話はとても印象深いものでした。少しだけ引用します。

世界の始まりの時、北の方から "コン" という名の人間がやって来た。彼には骨がなく、広い地方を敏捷に歩き回っていた。道を短縮するために山を低くし、谷を高くした。それも専ら、意志と言葉によってであった。なぜなら彼は、太陽の息子であることを誇りにしていたからである。…

この話をきいて、日本の創世神話に出てくる、生まれて3年経っても足が立たず、舟で流され捨てられてしまう "蛭子" を思い出しました。
"蛭子" の解釈は諸説あり、文字通り、蛭のように手足のない不完全な子という説もあれば、女性の太陽神 "ヒルメ" と対応する、男性の太陽神 "ヒルコ" ("日ル子")と考える人もいるようです。
"コン" は超人で、出来損ないの扱いを受ける "蛭子" とは大分違いますが、骨がない太陽の息子という点は似ていると思います。

因みに蛭子は、後に、海からやってくる福の神 "恵比寿(夷)" と同一視され、日本中で信仰されることになります。こんなふうに蛭子が復権(?)するのは、Wikipediaによれば、室町時代のことだそうです。また、このような復活(?)は世界的にも珍しい例だといいます。

何だか謎めいたところのある蛭子について、もう少し詳しく知りたいと思っていたところ、柳田国男氏の「海上の道」(青空文庫)の中に、次のような記述を見つけました。

記録としては久米島にただ一つ、残り伝わっているオトヂキョの神話が、日本の神代史の蛭子の物語と似通う節があることは、伊波君もすでに注意せられている。南の島々の父神は日輪であるが、その数ある所生の中に、生まれそこないのふさわぬ子があって、災いを人の世に及ぼす故に、小舟に載せて、これを大海に流すという点が、わが神代史の蛭子説話と、偶然の一致ではないように思われる。その仮定を確かめ得るものは、今後の多くのよその島々との比較であろうが、日本の内部においても、蛭子の旧伝には中世の著しい解釈の発展があって、それは必ずしも首都の神道の、関与しなかったもののように思われる。誰が最初に言い出したとも知れず、蛭子は後に恵比寿神となり、今では田穀の神とさえ崇められているが、その前は商賈交易の保護者、もう一つ前には漁民の祭祀の当体であり、その中間にはたぶん航路神としての信仰を経過している。

つまりここでは、(1)蛭子のエピソードには類話があること、(2)恵比寿様と一緒になる前に、複数のプロセスを経ていること、などが指摘されています。

(1)に関して、日本の南西諸島以外では、中国や台湾、東南アジアに似たお話があるようです(「兄妹始祖神話再考」)。こちらの文献によれば、完全な人間の代わりに生まれてきたものは、肉塊、ヒョウタン、動物など、いろいろです。そして、蛭子と同様に不完全な子として捨てられてしまう場合もあれば、捨てられず完全な人間の "種" のようになることもあります。肉塊を切り刻んでばら撒くと人間ができたり、ヒョウタンを畑で育てると人間が出てきたりします。

日本の神話で蛭子が流されるのは、妙に現実的で、シビアな感じがしますが、海外の神話では、先述のインカの "コン" も含め、蛭子 "的" な子供の運命はさまざまで、現実離れしたものも多く、興味深かったです。

中国や東南アジアの肉塊やヒョウタンは、今でいうiPS細胞みたいです。
インカの "コン" は、骨がないことが、逆に、超人の証のようです。
こんな荒唐無稽な話のなかには、大昔の人々が考えていた発生や進化のイメージが凝縮されているようにも感じました。

また、もしかすると蛭子のお話は、神話の中では割と新しくて、8世紀当時の人々の知識や考え方が強く反映されたものなのかも…?と、思いました。つまり、進化や発生の過程でより古いと思われる形の生き物が、人間の大元になったというアイデアが元々あって、それが、後になって生み損ないと解釈されるようになったのかも?と、大胆に想像しています。


ところで、そもそも、イザナミイザナギの神話が、アジア地域に沢山分布している「兄妹始祖神話」の1つだということも、初めて知りました。
日本オリジナルでは、ないようです。
でも、そうだとすれば、日本の本土に似たような話が残っていない(らしい)のも不思議な気がします。南西諸島の人が日本書紀を書いたのでしょうか…。

小判と死体を結ぶもの

昔話で、大晦日に預かった亡骸が、次の日になって大判小判に変わるというエピソードがあります(「大歳の火」など)。
亡骸が、なぜお金に変わるのか、その理由を、ラジオ「昔話へのご招待」では "古い信仰" によるものと説明していました。聴くたびに、不思議な信仰だなぁ…と思っていました。

山の宗教―修験道

山の宗教―修験道

先日、五来重氏の「山の宗教」の中に、次のような記述をみつけました。

熊野修験は死ぬことを「金になる」といったという話を『沙石集』(巻一)がのせているが、これも修験道と金属の関係をあらわすものとして注意してよい。(中略)
山伏の隠語では死人を金といったのであろう。「大晦日の葬式」という型の昔話では、大晦日の夜中に通る葬式の棺をあずかって、元日の朝あけてみたら死人は金になっていたという。この昔話には死者の霊を光物とする「たましひ」の観念もうかがわれるが、山伏の隠語は実際の山中の金属をさしていたとおもわれる。
このように山中の死人を金とする話の根底には、古代庶民の葬制に、死人を山頂、山腹、または山奥に捨てて風葬した習俗を想定することができるとおもう。しかし山林修行者としての山伏が、その先行者である山人の神秘な探鉱と採鉱の職業技術を伝承していなかったら、これをただちに金にむすびつけることはなかったであろう。(p.150-151)

更に、修験道では山を他界(あの世)と考えていることや、山によっては入口に銅の鳥居を置いていることなども説明されていました。

つまり、古代の人々にとって、山はこの世と地続きの他界であって、そこに金属が産出するので、他界の住人=死人と金とが、結び付いたと考えられるようです。お金と死体を結ぶものは、山に対する信仰だったのかもしれません。

また、これは私の勝手な想像ですが、金属を精錬するときにたくさん薪を切ったり火を使ったりすることや、時に周辺の植物や水に影響が及ぶこと、金属が素材として非常に長持ちすることなども、死のイメージを補強したのかも…と思いました。

(たたら場や金が死と結びつくのは、田や稲が生命力の象徴なのと、丁度逆だとも思いました。たたら場に死体を立てかけて作業の成功を祈願したという話がありますが、これは、田畑の豊作を祈願するために歌垣を催したのと、同じ考え方のように思います。)

数年来の疑問が少し解けた気がしました。古い信仰ではあるのでしょうが、金属素材は現代の便利な生活には欠かせないものです。それに対して古代の人々が大きな畏れをもっていたことを知り、大変考えさせられました。

鬼の伝説(片目伝説3)

若尾五雄氏の「鬼伝説の研究 -金工史の視点から-」によれば、大江山酒呑童子のような、鬼退治伝説が残っている土地は、周辺に鉱山があったり、鋳物師がいたりする場合が、多いのだそうです。そして、その土地では、鬼(鉱夫、鋳物師など)は嫌われる対象でなく、むしろ尊敬されているといいます。

私の郷里にも、鬼退治伝説があります。大江山と同じように、「鬼の岩屋」もあります。近隣から、銅鐸も見つかっているようです。
それに、片目伝説や、かつて星祠と呼ばれた神社もあります。

でも、そのあたりが鉱山だったという話や、鬼の子孫に関する話題は、きいたことがありません。知らないだけかもしれませんが…、少なくとも、地名辞典等には全く出てきません。徳川時代の記録では、触れられていないようです。江戸期に入る前に、移住者がかなりあったようなので、住民が入れ替わってしまったのかもしれません。

詳しくは分かりませんが、古代から中世にかけては、鉱山やタタラ場があったけれど、すっかり廃れてしまったのかな…と、想像しています。

郷里は、かなり辺鄙なところにあり、古代や中世に人がいたとは、何となく思っていませんでしたが、上のことから、資料を見直してみると、古墳がいくつかあることを知りました。また、昔、その古墳から朱と一緒になった人骨が出たという言い伝えもありました。骨は現存していないようなので、真偽は不明ですが、もし本当なら、裕福な人のお墓があったのかもしれません。
古墳時代弥生時代?)以来の歴史がある土地とは、思ってもみなかったので、意外な発見でした♪