陽だまり日記

陽だまり日記

大好きな本や映画のことなど

DNA検査の考え方(自分のルーツについて) 続き

DNA検査で、たとえば、「95%日本人、5%○○人」という結果が出た場合、どう解釈すればいいかについて、良い解説動画を見つけました。

www.youtube.com

まず、今のDNAテストは、ヒトのDNAのうち、個人差が現れる1%の、その中のさらに1%の配列を使って、「あなたの先祖は日本人です」etc... の結果を出していて、その判定の仕方は、データベースにある情報との比較だから、データベースに入っていない結果は出すことができないそうです。なるほど。極論すれば、100%日本人という結果でも、データベースに入ってない民族が入ってる可能性は捨てきれないということでしょうね。

 

また、パーセンテージについては、単純計算できないそう。上の例で考えると、

「5%ということは20分の1。1代前は2人、2代前は4人、3代前は8人、4代前は16人、5代前は32人……という計算で、4~5代前に○○人の祖先がいた」と考えたくなりますが、配偶子を作るときに組み替えが起こるため、このように単純に考えることはできないらしい。そうであれば、誤差範囲を教えてほしいです。5%(A~B%)みたいな。

 

そして一番面白かったのは、「100%フランス人(民族)、かつ、2%ネアンデルタール人(種族)」の話。「x%○○人」などといった場合に、それは民族のこともあれば(=近い過去に祖先がいた)、種族のこともある(=より長い時間軸で、集団で遺伝子を引き継いでいる)。現行のDNAテストは、○○人を識別するのに使っているマーカーが、民族的なものなのか、種族的なものなのか、分かるんでしょうか? 

 

もし分からないとすれば……、

 

日本人95%

○○人5%(ただしA~B%の誤差範囲があり、何らかの種族のマーカーを見ている可能性も捨てきれない)

 

ひょっとしてこういうことなの? 難しくてこんがらがってきました(笑)

DNA検査の考え方(自分のルーツについて)

仮にDNA検査をして、ほぼほぼ日本人、数%は○○人という結果が出た場合、どう考えたらよいのでしょう?

「数代前に○○人がいた」と考えるのが自然です。でもそうではない可能性を考えるとすれば、

「たまたま○○人と共通のDNA配列を持っているだけで、数代前に○○人がいたというわけではない」これはあり得るのでしょうか?

分からない……。そもそもまず検査してみないと(笑)

作物禁忌

千葉県ホームページに掲載されていたこちらの資料によれば、作物禁忌は、外来植物を土地の神が嫌うと言って忌む風習なのだそう。

そう言われてみると、代表的な禁忌作物であるゴマ(胡麻)やキュウリ(胡瓜)は異民族を表す「胡」の字が付いています。

そして、当たり前ですが、禁忌があるということは、昔むかし、その土地にその植物(を持った人々)が入ってきたことを表しているのかな……と思いました。

縄文人アップデート

近年のDNAの研究で、従来、東南アジアまたは北東アジア起源と考えられていた縄文人が、どちらにも属さない、独自の集団であることが分かったそうです。

www.brh.co.jp

日本の言語や文化は、南方由来と北方由来が混ざり合っていると昔からいわれています。

以前は、縄文人が南方出身、弥生人が北方出身というイメージもあったと思いますが、そうではなくて。

もともと縄文人がいたところに、南からの渡来人、北からの渡来人、両方来たということでしょうか。

 

稲作が広まる前にあったとされるサトイモ(=タロイモ、東南アジア原産)は、縄文晩期の畑作などともいわれますが、縄文人とは関係ないのでしょうか。

もしかして、「内なる二重構造」で提唱されているプレ稲作民「海の民」がサトイモを持ってきたのでしょうか?

www.fukuishimbun.co.jp

 

 

もう一つ面白かったのが、渡来系と縄文系のDNA分布図。

www.nikkei.com

大陸に近い九州や中国地方よりも、近畿・北陸・四国に渡来人が集まっているのが不思議です。(この「渡来人」に、プレ稲作民は含まれるのでしょうか?)

 

続報が気になります。

流れる水の音

織姫が水辺にいるのは、水の流れる音と機織りの音が似ているからという説があり、なるほどと納得しながらも、そんなに似てるものかな?と疑問に思っていました。私はそもそも機織りを見たことがなかったので、一応動画を見ましたが、よく分かりませんでした。

でも、今日、とある神社で手洗い場の水が流れる音を聞いていたら、絶え間なく続く機織りの音は、絶え間なく流れる水音を想起させるのかもしれないなと思いました。

あるいは、水車の音ならもっと近いかもしれません。水車というものがいつからあったのか分かりませんが。

聖なる植物

前回の続きです。

シュクラが目をケガしたのは、日本語のお話(出典不明)では「わら」となっていますが、スカンダ・プラーナでは「Darbha grass」=ギョウギシバとなっています。

en.wikipedia.org

    When he obstructed the flow of water at the time of the gift of the earth by Bali (to Vamana), Bhargava (i.e. Sukra) lost his eye on being pricked with the tip of the Darbha grass held in his hand by Vishnu (i.e. Vamana). He went to Sonacala and performed a very difficult penance. With his soul purified, he regained his eye.
    —  Skanda Puran (Unknown translator, 1951), Part 3 (Purvardha), Chapter 6, Verses 51b-53(上記Wikipediaより引用)

 

ja.wikipedia.org

一見地味な雑草という感じですが、ヒンドゥー教の儀式には欠かせない聖なる草で、ガネーシャには特に神聖、また、ヴィシュヌもこの草を好むのだとか。だから、ヴィシュヌのアバターであるヴァーマナがギョウギシバを使ったんですね!ちゃんと理由があったわけです。

 

この聖なる草の起源について、ヒンドゥーの神話はさまざまな説を説いている。(中略)マンダラ山は亀の姿に変身したヴィシュヌ神の上で回転され、そのときヴィシュヌの体毛がこすれてちぎれ、その体毛が波によって岸に打ち寄せられて地に根を下ろし、ドゥールヴァdurva、すなわちギョウギシバになったのだという。(T.C.マジュプリア「ネパール・インドの聖なる植物」より引用)

 

 

昔の人の想像力は凄い……。

 

上に引用した本には100種類以上の"聖なる"植物が紹介されていて、その中には竹やキュウリ、カボチャ、ダイコン、サトイモ、ゴマなど日本でも身近なものが幾つかありました。

スーパーに行けばいつでも食べ物があり、薬局に行けば薬が買えるような生活をしていると、そのありがたみに鈍感になってしまいますが、本来は、一つ一つの植物に神様が宿っていると考えるほど、大事にされてきたんだなぁと実感しました。

日本の栽培禁忌も、詳しい経緯はよく分かりませんが、そういう植物を大事にする気持ちの延長線上に生まれた風習なのかなと思いました。

インドの「片目をつぶした僧」のお話

「片目をつぶした僧」というインドのお話を見つけました。

ある天文同好会のホームページから。

www.saninjyoho.com

お話はこちら。大変興味深いので引用させていただきます。(問題があればご連絡ください)

インドの古代神話では、金星は男の神シュクラで、その光と色から、「十六の光を持つ神」、また「白い神」とも呼ばれていました。
シュクラは僧侶でもあり、善王バリの師でした。インドの神々は徳行の高い人間をきらったので、ある時、ヴィシュヌが小びとの姿でバリの前に現われ、施し物を乞いました。
シュクラは、それが王の身を亡ぼすたくらみであることを知り、何も施さないようにかたく戒めましたが、王はシュクラの言葉を聞かずに、僧たちに経文を読ませ、水を注いで、施しをさせようとしました。
そこでシュクラは、身を変じて器の中に隠れ、呪文をとなえて水が流れでないようにしました。
しかし、ヴィシュヌは早くもその事を知って、器の中にひとすじの「わら」を投げ込みました。
投げ込まれた「わら」は、シュクラの目にあたり、痛さのあまり器からとび出したので、水は流れだし、ヴィシュヌは施し物を手に入れて、地から天まで三足で飛び上がり、シュクラは片目となってしまいました。
この、ヴィシュヌの三段飛びは、太陽の出と、南中と、入りを表わすものとされ、また三つ星をこの時の足跡とも伝えています。

驚いたことに、植物が神様の目に当たって片目になるお話です。

日本以外にもあったんですね。

 

原典を探したところ、「スカンダ・プラーナ」のPart 3 (Purvardha), Chapter 6, Verses 51b-53 に載っているらしいことが分かりました。

en.wikipedia.org

kotobank.jp

 

このお話は、ヴィシュヌの化身ヴァーマナの神話として広く知られているようです。

ja.wikipedia.org

上記から引用します。「アスラグル・スクラチャリヤ」というのが、上のお話のシュクラのこと。

ヴァーマナはバラモンの乞食少年を装って3歩歩いた分だけの土地を要求し、バリは師のアスラグル・スクラチャリヤの警告にもかかわらず、それを認めた。ヴァーマナは巨大化し、1歩目で大地を跨ぎ、2歩目で天を踏み、地底世界(パーターラ)はバリのために残しておいた。しかしバリは約束が履行されない事を望まなかった。そのためヴァーマナは3歩目でマハーバリの頭を踏み付けて地底世界へ押し付けることで同意した。バリは不死身にされ、今も地底世界に棲むと言われる。

 

ここにはシュクラが目をケガするくだりがありません。

つまり、シュクラが目をケガするバージョンは、有名なヴァーマナ伝説の、異説という感じなんでしょうか?

インドの「隻眼の聖者」のお話

国会図書館デジタルコレクション「インド・ペルシャ神話と伝説」(S10、馬場吉信 等編)、「シヴァ物語」の中に、「隻眼の聖者」(p. 366~370)というお話がありました。

dl.ndl.go.jp

ある猟師が、山頂で神像に出会って深く信心するようになった。ところが、神像を以前から祀っているバラモンは、神に仕える正しい方法を知らない粗野な猟師が嫌でたまらなかった。祀られている神は、猟師の気持ちの純粋さをバラモンに見せるため、神像の目から血を流した。すると猟師は自分の片目を捧げ、神が止めなければ両目を捧げるところだった。これを見たバラモンは神への愛は正しい儀式よりも尊いことを知り、猟師は片目の聖者として以後崇められることになった。

 

要約すると上のような内容です。

隻眼の聖者は、信仰心が非常に強く、神に特に愛された人。とてもすっきりしていて分かりやすいと思いました。

物言う牛

予言獣「件」(くだん)に関する続報です。

私は何でこんなに件が好きなんでしょう(笑)

最近のマイブーム『捜神記』をパラパラ見ていたら、「204 牛がものを言えば」が目に留まりました。

 

中国の晋という国で4世紀初め、車をひいていた牛が急にしゃべり出し、天下の戦乱を予言したというのです。

エピソードの最後、『京房易伝』から、「牛がものを言えば、その言葉の内容通りに吉凶を占うことができる」と引用されていました。

 

『京房易伝』は、紀元前1世紀、前漢時代の京房という人による易書のようです。

kotobank.jp

予言獣としての牛は少なくとも4世紀にはいた。ひょっとしたら紀元前からいたかもしれない。ということかと思います。

 

『捜神記』には、これ以外にもさまざまな戦乱の予兆に関するお話がありました。例えば二本足の虎(184)とか、屋根の上の鯉(186)とか、他にもたくさんありましたが、その根底には、普段と違う出来事は災いと結び付くという考え方があるようです。

 

災いを予測するのは難しいけれども、どうにかして身を守りたいという、切実さが感じられます。

日々空襲にさらされていた時代、件の噂話が流布したのも何だか頷けます……

片目伝説(10)ヒトツモノ

先日書いた片目伝説(9)の、柳田国男さんに関する、下の部分の続きです。

柳田氏は、片目の神=大昔の生け贄という、ちょっとびっくりするような仮説を提唱しています。時代が下りその意味が忘れられて零落した姿が、妖怪・一つ目小僧だというのです。

この説には批判もありますが、角川ソフィア文庫「一目小僧その他」の解説によれば、解説者・鎌田久子氏の実家は代々「五郎つあま」と呼ばれ、長男でも五の字のつく名前を付けられ、当主あるいはその妻が片目になるという言い伝えがあり、神官ではないものの家の真後ろに氏神の諏訪様が祀られていたのだとか。柳田説と妙に符合する話で気になります。ひょっとしたら……と思わせます。

個人的にもう一つ気になるのは、柳田氏には生け贄説を思い付くような何か具体的理由があったのだろうかということ。

omn.hatenablog.com

具体的理由は、もしかしたら、今も日本各地にある「ヒトツモノ」が登場するお祭りだったのかもしれません。

ヒトツモノとは何か

ある種のお祭りに登場する神の依坐としての、お稚児さん、または人形、または植物(葦やススキ)を指します。元々は風流であるとの説もあるそう。

稚児などの扮装した人あるいは人形がヒトツモノと呼ばれ(中略)日本民俗学において依坐やその名残であるという説が定着しているが、元々は風流であるとの説もある。

(ヒトツモノ-Wikipediaより)

ja.wikipedia.org

各地の神事にヒトツモノと呼ばれ,必ず神前に供えられる1本のあしやすすきが登場する例がみられる。この片葉のカタは諸葉のモロ,すなわち2つということに対して1つを意味し,もとは尸童 (よりまし) が手に取った手草 (たぐさ) のことで……

(片葉の葦とは-コトバンクより)

kotobank.jp

ヒトツモノにはどういう意味があるのかということについて、こちらの考察が興味深かったです。京都の上賀茂神社では、ヒトツモノとは「料理をしないで供える神饌名」だったそうです。料理をしないで……つまり、生きたまま? こうなってくると、生け贄説は突飛とは思えません。

堀井令似知は、『京都のことば』(和泉書院、1988.11)で上賀茂神社のヒトツモノを紹介している。それは、料理をしないで供える神饌名であったという。この話は、ヒトツモノを考える上で大きなヒントになる。おそらく、ヒトツモノは祭礼に当たって神に献上する稚児であり、それ故に美々しく着飾って神事に参勤したのであろう。こうしたヒトツモノの役割が、祭礼の風流の一つ、神が依りつく稚児という二つの説を生み出していくことになるのである。(高砂市民俗調査より)

人がヒトツモノとなる事例

Wikipediaによれば、お稚児さんなどの人がヒトツモノとして登場するお祭りは近畿や香川県で行われています。

ヒトツモノ、あるいはヒトツモノであると考えられている行事がいくつかの地域で行われており、春日若宮神社奈良市)、懸神社(宇治市)、粉河産土神社(紀の川市)、曽根天満宮・荒井神社・高砂神社(高砂市)、射楯兵主神社・大塩天満宮姫路市)、琴弾八幡宮観音寺市)、熊岡八幡宮・宇賀神社(三豊市)などは人がヒトツモノとなる事例である。(ヒトツモノ-Wikipediaより)

上記引用文に挙がっていない事例として、

兵庫県宍粟市――波賀八幡神社

決められた家系あるいはその家が推薦した童子が特別な扮装をして馬に乗り(=一つ物)、渡御行列を先導する。童子は祭りの間は地面に足をつけてはならないことになっている(関西大学博物館彙報(2021年3月21日発行))。

人形をヒトツモノとしている事例

Wikipediaによれば、人形をヒトツモノとしている事例は、和歌山県茨城県、愛知県にあります。

熊野速玉大社(新宮市)、大宝八幡宮下妻市)、八王子社(江南市)などでは人形をヒトツモノとしている。

大宝八幡宮の事例では虫送りのような穢れを流す行事と人身御供譚の影響が見られる。 (ヒトツモノ-Wikipediaより)

茨城県下妻市――大宝八幡宮

一つ目のわら人形を奉じ注連たすきをかけた世話人が、氏子区域を練り歩き、人形を大宝沼(現在は糸繰川)に流して終わります。(大宝八幡宮Webサイトより)

www.daiho.or.jp

 

他に、次のような興味深い事例もあります。ヒトツモノとは呼ばれていないようですが、神の依坐役をする人が一つ目を模し、笠をかぶり、馬に乗るというところが、上記と似ているし、古くは人身御供そのものを模した神事が行われていたそうです。

千葉県袖ヶ浦市――坂戸神社

「一目御供」(選ばれた人が、穴を開けて一つ目を模した笠をかぶり、馬に乗って神前に向かう)の神事があり、また、もっと昔には「人身御供」(くじ引きで選ばれた村人を神主が包丁で切る真似をする)が行われていたことが、「房総志料」など郷土資料に出ているそう。

柳田国男氏の生い立ちとの関連性

柳田氏は著書の中でヒトツモノについて触れていて、このようなお祭りをよくご存じだったことが分かります。

この御社の古い方の神の依坐(ヨリマシ)は、御幣すなわちミテグラになっているのであったが、これにはまた現実の活きた人間を使うこともあった。神霊のこれに乗り移らせたもうた後、歩ませてまたは馬に乗せて、祭場に進む例は今でもまれでない。ヒトツモノというのが多くはこれであった。その一つ物も熊野の新宮のように、いつのころからか馬上の人形になっている所もある。そういう場合にはその人形の腰に挿しまたは笠の端につけた一種の神聖なる植物に、心霊が御依りなされるものと考えていたようである。(柳田国男「日本の祭」より)

dl.ndl.go.jp(47~48ページ)

 

その出身地である播州地方には、ヒトツモノが登場する祭礼が比較的多く分布しています。上記のとおり、Wikipediaには曽根天満宮・荒井神社・高砂神社(高砂市)、射楯兵主神社・大塩天満宮姫路市)が挙げられていますし、他には波賀八幡神社宍粟市)にもあります。

上に挙げた高砂市民俗調査によれば、「県下においては高砂市を中心に東播磨西播磨の一部に分布するに過ぎない」とあり、兵庫県内ではこの辺りに集中しているようです。

また、関西大学博物館彙報(2021年3月21日発行)によれば、「兵庫県南部の加古川市から赤穂市に至る地域には、祭りに一ツ物・頭人・馬乗り・カゲシなどと呼ばれる子どもが登場することは知られている」。

 

柳田氏の故郷は兵庫県神崎郡福崎町辻川で、地図を見るとまさに加古川市赤穂市の間、波賀八幡神社がある宍粟市のすぐ隣。

ここにも同様のお祭りがあったのかもしれないし、ひょっとすると、自ら稚児役をしたことがあるのかもしれません。想像をたくましくし過ぎでしょうか。

 

そして、柳田氏が12歳から多感な時期を過ごし、現在柳田國男記念公苑があるのが茨城県利根町。茨城と千葉の県境で、上に挙げた袖ケ浦市下妻市のちょうど中間付近です。ことによると、大宝八幡宮や坂戸神社で行われているようなお祭りも、経験されたのかもしれません。

 

全ては私の素人的想像で、何の直接的証拠もありませんが、もしこれらの祭礼をよく知っていたのであれば、生け贄説を考え付くのは自然かと思えました。