陽だまり日記

陽だまり日記

大好きな本や映画のことなど

「日本霊異記」の牛女

日本霊異記」(現代語訳)の下巻第二十六に、強欲のため、死んで7日後に上半身が牛となって生き返った人の話がありました。讃岐国美貴郡の、田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)という名前の女性です。

百科事典に載っている有名人のようです(↓)

kotobank.jp

 

牛になってしまう部分は、かなり迫力のある描写だったので引用します。

七日目の夕方また生き返り、棺のふたが自然に開いた。そこで棺をのぞいて見ると、臭いことこの上なく、腰から上は牛となっており、額から四寸ほどの角が生えていた。両手は牛の足となり、爪は裂けて牛のひづめに似ていた。腰から下は人の形をしていた。飯を嫌って草を食べ、食べ終わると反芻した。裸で衣服をつけず、糞と土に臥した。(平凡社 東洋文庫日本霊異記」より)

 

(草を食べ反芻したという辺りはちょっと可愛いですね。)

 

 

日本霊異記」は景戒というお坊さんが書いた仏教説話集なので、ここでは、生きているときの強欲のために、罰として死後あさましい姿になってしまったという教訓話になっています。

これと同様に、強欲のため死後牛になってしまう話は「日本霊異記」の中に幾つかありました。生きているとき他人を牛馬扱いして搾取すると、死後、今度は自分が牛馬に転生してしまうという論理です。

少し気になるのは、このお話は全てが景戒さんの創作なのか、それとも、もともとあった地域の伝承を一部アレンジして、仏教説話に書き換えたものなのか。

それから、比較的最近になっても、西日本を中心に「件」という怪物が知られていますが、関係あるのかどうか。

ja.wikipedia.org

例えば、古くから西日本で多く語られていた妖怪で、「日本霊異記」に仏教説話として取りあげられたとか、あるいは、「日本霊異記」に讃岐出身と書かれたことで、西日本に定着したとか。そうだと面白いなと思います。

 

上で引用した平凡社東洋文庫日本霊異記」では、各段について別の説話集に類話があるかどうかも詳しく書かれているのですが、このお話は残念なことにそれがありませんでした。

不殺生の謎

日本の昔話「猿婿」「蛇婿」で、人間の娘を妻に迎えようとした猿や蛇が最後に殺されてしまうのは、仏教的な世界観が流入して、もともとは神様的存在だった動物が、畜生と見なされるようになったからだと説明されますが、

でも、仏教の不殺生はどこ行っちゃったの?と、個人的に引っ掛かっていました。

 

最近「日本霊異記」(現代語訳)を読んでいたら、面白いお話を見つけました。

 

 

ある女が、蟹が人につかまっているのを助けます。また、蛇が蛙を呑んでいたので、「蛙を放してあげてほしい、その代わり妻になるから」と言います。蛇は蛙を放して、約束の晩に婿として女の家にやってきますが、そこに助けた蟹が現れ、蛇をずたずたに切り刻んで恩返しをするというお話。

中巻の第八、第十二にあり、「今昔物語集」などにも収載されているそうです。

 

蟹や蛙などの比較的弱い動物と、そうでなく、もともと神様で人間の娘を妻にしようとするような(動物ばなれした?)蛇は、仏教的世界観では同じ動物とは見なされず、区別されているのかな……と思いました。

「阿波の狸の話」

「阿波の狸の話」を読んでいたら、しっぽの釣りの話が何回か出てきて驚きました。

しっぽの釣りは、寒い冬にきつねが川にしっぽを入れて釣りをしようとして、しっぽが凍り付いてしまうというようなお話だったかと思いますが、

北国の話だと聞いた気がするので、四国にまで伝わっているとは意外でした。

「国際昔話話形カタログ」で分布を見てみると……

フィンランドフィンランドスウェーデンエストニア、ラトヴィア、リトアニア、ラップ、リーヴ、ヴェブス、ヴォート、リュディア、カレリア、コミ、スウェーデンノルウェー、フェロー、アイスランドアイルランド、フランス、スペイン、バスクポルトガル、オランダ、フリジア、フラマン、ワロン、ドイツ、イタリア、ハンガリーチェコスロバキアスロベニアルーマニアブルガリアギリシャポーランド、ソルビア、ロシア、ベラルーシウクライナ、トルコ、ユダヤ、ジプシー、オセチア、チェレミス/マリ、チュヴァシ、タタール、モルドヴィア、ヴォチャーク、ネネツ、シベリア、ヤクート、タジク、モンゴル、グルジア、イラン、インド、中国、朝鮮、日本、アメリカ、フランス系アメリカ、スペイン系アメリカ、メキシコ、アフリカ系アメリカ、プエルトリコ南アフリカ

北国が多いけれど、南ヨーロッパやインド、アフリカにも類話があるようです。

「輪廻転生」

「輪廻転生」という本に、とても印象的な箇所がありました。

 

生まれ変わりについて、多くの民族が持つ最も古い考え方は、亡くなった人が同族・親族として生まれ変わるという「再生型」。

その1つのメリットは、ソーシャル・キャピタルのリサイクル

いったん過去において構築された人間関係や信頼関係などの社会関係資本ソーシャル・キャピタル)が、当事者の死とともに廃棄されるのではなく、生まれ変わりという観念を媒介として、新生児においても再利用(リサイクル)されているのです。 

竹倉史人「輪廻転生」(講談社現代新書) 53ページより引用

これにはすごく納得しました。

生まれ変わりが本当にあり得るかどうかはともかく。

いくつかの親族が集まって暮らすような小さな村では、自分の周りに多くの信頼関係を確保することが、生きていく上でとても重要なんだと思います。一種のセーフティーネットとして。大昔の、法律も何もない時代なら、なおさら。

実利的な意義もあって、生まれ変わりという考え方が世界各地で継承されてきた……なるほど!

舌切り雀のこと(3)

昔話「舌切り雀」は、宇治拾遺物語採録されている「腰折れ雀」をルーツに持つのではないかとよくいわれるようですが、それ以外に、雀=若い女性説や、雀=桃太郎的英雄説があることを1つ前の記事で書きました。

後の2つについて考えてみると、いずれもお話で語られていない舌切り雀の特殊な属性を明らかにしようとするものです。舌を切られた時点で十分特別とも考えられますが、やはり、肝心の切られる理由に物足りなさを感じる人も結構いるのかなと思います。

でも、理不尽とも思えるような理由で痛い目に遭っているからこそ、かえって人気があるのかもしれないなぁとも思いました。

舌切り雀のこと(2)

「舌切り雀」を久しぶりにラジオ「昔話へのご招待」(2020.8.16)で聞いて、何だか不思議なお話だなぁと思いました。率直に言えば、何となく辻褄が合っていないような気がして。ちょっとしたこと(?)で一緒に暮らしていた雀の舌を切るとか、探しに出たお爺さんにとんでもない試練が課されるとか、人間にひどい目にあわされた雀が財宝をくれるとか。いくら昔話は極端が好きといっても極端過ぎるような気がするし、このお話が5大昔話に入っているのはどういうわけかしら……とも思いました。

それでいろいろ検索などしていたところ、前回も書きましたが、雀=若い女性という解釈があるそうです。なるほど、そうであれば筋が通るような。この説は作家の松谷みよ子さんなどが主張されているのだとか。

他には次のような解釈もあります。柳田国男さんの「桃太郎の誕生」に書かれているのですが、それによれば、舌切り雀は、もともとは「桃太郎」「一寸法師」などのように、神の子が人間のもとにやってきて鬼退治をするようなお話だったのが、時代とともに変化して今のような形になったということです。ちょっとビックリするような説ですが、その根拠として、「尾っぱ切り雀」、「雀の仇討ち」など多数を挙げています。

舌切り雀のルーツは、13世紀鎌倉時代宇治拾遺物語に載っている「腰折れ雀」が広く知られていて、上の柳田氏の説はそれに比べると少数派のようですが、とてもロマンがあって魅力的だと思いました。

尾っぱ切り雀は、お婆さんが川上から流れてきた雀を拾って大事に育てていたけれど、糊をなめてしまったのでお爺さんが尾羽を切って追い出してしまって、あとは舌切り雀と同じ話。川上から流れてきたのが桃太郎的というわけです。

雀の仇討ちは、山姥が雀の卵と親雀を食べてしまって、一羽だけ助かった子雀が仲間と仇討ちをする話。仇討ちの部分は猿蟹合戦の後半とよく似たお話です。卵から生まれた小さな子が、仇討ちという英雄的行為を成し遂げるところが桃太郎的と考えられるそうです。

また、舌切り雀や尾っぱ切り雀で、雀がひどい目にあわされる理由も考察されていて、舌切り雀が桃太郎的なお話であるとすれば、桃太郎に黍団子が付随しているように、雀に糊が付随していて、そこから変化していったのだろうということです。

確かに(?)、雀の仇討ちでは、子雀が米の団子をこしらえて仲間を募る場面があります。これが、糊を食べてお仕置きされるように変化したとすれば相当大きな変化のような気もしますが、逆に考えると、そんな変化が起きるほど、元は古いお話だったのかもしれません。

雀の仇討ちに関しては、最近、これを海外(北東アジア、東南アジア、シベリア、アメリカ北西岸インディアン)の類話と比較して、この昔話のテーマは"悪天候からの回復"だとする説があるようです。面白かったのは、紹介されている類話の中に、ミャンマーで語られていたという、桃太郎に似たお話があったこと(出典)。

ラジオ「昔話へのご招待」でも、桃太郎や猿蟹合戦の類話はいろいろ紹介されていて、桃太郎のバリエーションの中に、猿蟹合戦の後半によく似たものがあるというのは聞いたことがあります。それから、猿蟹合戦の類話として挙げられたグリム童話の「コルベスさん」については、どういうわけでコルベスさんがひどい目にあうのかお話の中で語られないので、グリム自身も大変興味を持っていたようだという小澤先生の解説が印象的でした。私も聞いていて不思議だなぁと思っていたのですが、こんな難しい謎を説明するような研究もあるのですね。ちょっと感動してしまいました。

舌切り雀のこと(1)

先週のラジオ「昔話へのご招待」では、「舌切り雀」が紹介されました。久々に聞いてみると、何だか不思議な話のように思いました。

お婆さんが、(理由があったとはいえ)雀の舌をいきなり切ってしまうのはちょっとビックリだし、雀の居所を探すのに、お爺さんが肥を飲むっていうのは過酷すぎるような気がするし、雀は人間に舌を切られたのに、お土産をくれるんだなぁ……なんて、いろいろ考えてしまいました。

インターネットで検索してみると、"雀=お爺さんの愛人説"というのがあって、そうだとすれば少し納得できるような気もしました。

もっといろいろ調べてみると、舌切り雀は、「宇治拾遺物語」(13世紀、鎌倉時代)の「腰折れ雀」が基になっているという説が、かなり広く信じられているようで、kotobankにも記載されていましたし、国会図書館のデジタルコレクションにも見つかりました。

でも、腰折れ雀と舌切り雀は、同じ雀が出てくるにしてもだいぶ違います。腰折れ雀はけがをしていた雀を助けたら恩返しをしてくれたという話で、雀の舌を切るわけではないし、雀を探しに出てとんでもない試練を課されるわけでもありません。

そんなことを考える人は結構いるようで、舌切り雀は腰折れ雀とは別の系統の話だろうとか、腰折れ雀の影響を受けていたとしても、別の要素もあるだろうという説が散見されます。

その代表的なものに、柳田国男氏の「桃太郎の誕生」があります。同書では、青森県津軽で採取された「尾っぱ剪雀」が舌切り雀のより古い形であるとしています。驚いたことに、このお話では、糊を食べた雀の頭を"擂木で"打って、"尾羽を剪って追出した"のは、お婆さんではなくお爺さんで、"臼彫りと菅刈りに"道を尋ねて雀を探すのがお婆さんです。となると、愛人説も否定されてしまいます。お話の冒頭で、お婆さんが、"綺麗な娘子を一人拾ってきた"と言うのにもかかわらず。

別の例は、国会図書館のデジタルコレクションにあった志田義秀著「日本の伝説と童話」(1941)。腰折れ雀と舌切り雀の中間的なお話として、鎌倉後期の「風葉和歌集」の中の「雀の物語」、後柏原院勾当内侍作と伝える「雀の発心」、同じく 勾当内侍作と伝える「雀の松原」を挙げています。が、私にはこれらも雀が出てくる以外どういう共通点があるのかよく分かりませんでした。

前述の「桃太郎の誕生」によれば、舌切り雀は外国人に珍しがられたそうですが、さもありなんと思うような不思議なお話の、ルーツはいまだ諸説ありのようです。

ところで、国会図書館のデジタルコレクションを見ていたら、腰折れ雀と舌切り雀が混ざったようなお話もありました。「白鳥町史」(1985)という香川県の郷土誌で紹介されている「雀の恩返し」という口承文芸で、だいたい次のような内容です。

ある朝雀がうるさく鳴くので見ると、雀がヒサゴの種を持ってきてくれた。それを蒔いてなったヒョウタンを、お婆さんが、舌切り雀のところに持っていった。糊をなめたので舌を切られて飛ばされて淋しかった雀に同情したお爺さんが、何かつけて治してやって飛ばせた。すると、舌切り雀は治してもらって嬉しかったんだろう、ヒサゴの種を持ってきてくれて、それを蒔いたらヒョウタンができて、中からいいものがたくさん出てきた。……

舌切り雀の恩返しに、"治してやった"というはっきりとした理由がついているのが興味深いですし、ヒサゴの種が2回出てくるのもとても面白いです。もともとあった腰折れ雀のお話の中に、舌切り雀が友情出演したような感じで、何となく、やはり両者は別物ではないかという感じがしました。

桃太郎のこと

ラジオ「昔話へのご招待」で、かなり前に「桃太郎」が取りあげられたことがあります。桃太郎の解釈の歴史や、外国の昔話との比較など、とても面白くて、特に印象に残っています。

この中で、柳田国男さんの「桃太郎の誕生」についても触れられていました。その部分の小澤先生の解説を引用します。

柳田先生、こういうふうに言ってらっしゃるんですね。

桃太郎のあの桃は、川上から流れてきたと。で、日本の川の川上って、みんな山であると。山から流れてきてる。山から流れてくるっていうのは日本独特なんですけど。

(中略)

すると、その山の上っていうのは、日本の信仰では神様がいる場所であると。天孫降臨っていいますからね。山の上に神様降りてきたと。

だもんで、その山の上から流れてきた桃。そこに、中にいた子供は神の子であると、神から授けられた子であると、こういうお考えだったんですね。

 (ラジオ「小澤俊夫 昔話へのご招待」2011/10/21放送より)

最近ふと思い出したのですが、山に神様がいて、川を伝って人里に下りてくるという考え方は、「アマテラスの誕生」という本に紹介されていた、日本の古い信仰だったような…。同書の著者は、神主でもある筑紫申真さんという方です。

「桃太郎の誕生」は、そういう知識(常識?)を前提に書かれた論文だったのでしょうか。

小澤先生は、桃太郎の桃は、神聖な山の上から神の子を乗せてきたというよりは、中国の道教で不老長寿の果物として神聖視されていた桃が日本に入ってきたというお考えのようです。桃太郎のバリエーションで、おばあさんが桃を食べたら若返って桃太郎が生まれたという話もあるそうなので、確かにそのほうが話が合います。同時に、そもそもなぜ桃なのか?という疑問も解決されます。

でも、そうなると、今度は、なぜ桃が川を流れてくるパターンが生まれたのか?という疑問が出てきます。やっぱり、柳田説が当たっているところもあるのかも……と思いました。

桃太郎の誕生 (角川ソフィア文庫)

桃太郎の誕生 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:柳田 国男
  • 発売日: 2013/08/24
  • メディア: 文庫
 
アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)

アマテラスの誕生 (講談社学術文庫)

  • 作者:筑紫 申真
  • 発売日: 2002/05/10
  • メディア: 文庫
 

妖怪の効能

今年2020年はアマビエという妖怪が話題ですが、「くだん(件)」という妖怪も、かつてアマビエとよく似た厄除けの効能で有名になったと知り驚きました(Wikipedia)。似たような妖怪が複数いるのはなぜなのでしょう?

「件」は、厄除けばかりでなく、災害を予言することでも知られているそうです。災害の予言といえば、津波を予言するキャラクターが現れる昔話をラジオ「昔話へのご招待」で聞いたような気がします。

 

……飛躍しますが、もしかすると、厄除けや予言をするキャラクターは、災害を語ることに対するタブー感を乗り越えるためのシステムなのかもしれない……なんて、何となく思いました。話題にしづらいことでも、話せたほうが、個人としても気が楽だし、集団の歴史としても記憶されやすくなると思います。

最近では、東日本大震災で食物汚染が話題になった直後、何だか疲れたような顔のキノコのキャラクターが大流行しました。あれは厄除けではなかったけれど、もしかするとそういう類いだったのかも……? 勘違いかもしれませんが、そんな気もします。

 

そう考えると、太平洋戦争の空襲の記憶を負っているらしい「件」の目撃談が、西日本に集中しているのはなぜなのでしょう。空襲は日本全国にあったのに。何か風土の違いがあったのでしょうか? 謎です。

「蘇我氏 古代豪族の興亡」

蘇我氏 古代豪族の興亡」という本をときどき読み返しています。

蘇我氏 ― 古代豪族の興亡 (中公新書)

蘇我氏 ― 古代豪族の興亡 (中公新書)

  • 作者:倉本 一宏
  • 発売日: 2015/12/18
  • メディア: 新書
 

蘇我氏は、歴史を習い始めて最初に出てきた"悪役"なので、とても印象深いです。

他の歴史上人物では、例えば足利尊氏など、戦後になって名誉回復(?)した人もいます。そう思うと、蘇我氏が何だか気の毒のような気がします。

蘇我入鹿は大悪人で、聖徳太子は聖人というのは、でも、本当なのでしょうか。

何だかいろんなことを考えさせられる一冊です。

本書の中では古代の天皇が「和風諡号」で呼ばれていて、大変興味深いものでした。例えば推古天皇は「とよみけかしきやひめ」です。

推古天皇といえば、その時代の中国の記録では、日本の王は女王ではなく男王とされていて、これは聖徳太子のことだろうとあっさり書かれているのも気になります。もしかして、聖徳太子が大王で推古天皇が摂政だったんじゃない?なんて、つい想像をたくましくしてしまいました。